眠らない島

短歌とあそぶ

門脇篤史 第一歌集 『微風域』

夕闇にジャングルジムはいくつもの立方体を容れて立ちをり     
 
 公園にさしかかったときだれでも目にするジャングルジム。子どもの遊具でありながらこれほど潔癖にその属性をぬぐい取られて、無機質に、そして美しく詠まれたジャングルジムの歌を知らない。ここには明確なこの作者の言語化ということへの方法意識が伺われる。
 日常の猥雑な世界から事物を恣意的に抜き出して、それを言語化することで、その事物は日常性から放たれて別の表情になる。脱日常、脱主観への飛翔。あるいは悲傷。それが自分の詩学であることにきわめて自覚的な作品だ。ものの存在感が現実以上の現実性をもって迫ってくる。おそらく作者はそういう純粋な世界にあこがれているし、それを自らの言葉で可視化しょうとしている。
 
ハムからハムをめくり取るときひんやりと肉の離るる音ぞ聞こゆる   
捨つるため洗ふ空き缶水道の水を満たせばふたたび重し    
天体に触れたるやうなしずけさでボイルドエッグ剝く朝のあり  
会議室を元の形に戻しをり寸分たがはずとはいかねども    
 
物への接近を試みる歌はこの歌集の根幹をなしている。主観や感情そのものはおそらくこの作者には手ごたえがないのだろう。それよりも物を知覚することでせり上がってくる実在感や、違和感、充足感によってはじめて自分の内部が照らし出される歓びがあるようだ。
1首目のハムの歌では、その剥がす音を可視化することで、ハムの生々しい質感を伝えており、そこにゆれる感情が見える。重厚な文語が効果的だ。
二首目、空き缶に水を容れるとふたたび重くなるのは当たり前だけど、ものの質の変容ということに感覚を集中させていて新鮮。3首目、ひと粒のゆでたまごをこんなコスモロジーの世界に高めてしまう技に感服した。
そして、4首目、これもなんでもない場面だが作者のこだわりの場所がおもしろい。空間が変容しそしてまたもとに戻る、会議室という空間が人が関わることで変質することへの違和感。作者はそこから使用感をできるだけ拭いさろうとする。ここにも、この作者の脱日常性への志向があるように思う。
 
原付を追ひ抜くせつな吾にきざす言語化といふ仄暗きもの  
 
 この歌は自らの方法を率直に詠んでいて注目した。日常にあふれるもの、あるいはだれにも見えていない不可視な状態を言語化することで可視化する。そこにほのかなポエジーが立ち上がる。それをこの歌では「仄暗きもの」と呼んでいる。言葉をあつかうのは本来「仄暗」くて後ろめたいものだし、そういう意味では孤独な世界のひとり遊びかもしれない。しかし本来、詩とは孤独な世界の住人のためのものだ。
 
世界から隔絶されたこの場所でジェットタオルの風に吹かれて  
たぶんもう飛べないだらういらいらと餃子の羽を菜箸で折る   
死者ばかり増ゆる世界に住んでゐてぼくはただただ生きねばならぬ     
わたくしをぢっと薄めてゆく日々に眼鏡についた指紋を拭ふ   
 
この歌集全体をおおっている生きることへの憂愁のような霧は、いやがうえにも孤独感を煽るし、無目的な存在のしかたを際立たせている。そういう隔絶のしかたはあるいは作者には慰めかもしれない。
しかし、さらにこの作者には深い裂け目があってそれが実存的に作者を揺さぶるとき歌にまた違った表情がゆらゆらと現れる。クールに見える作者のなかに押さえつけられている傷や不安や怒り。それがさらに言語化されていけばどんな歌にかわるのだろう。これからにますます注目したい。
 
権力の小指あたりに我はゐてひねもす朱肉の朱に汚れをり
 
故郷から届く馬鈴薯いくつかは鍬の刺さりし跡を残して
    
ふたりゆゑかくも孤独な真夜中は夜露に濡るる楡を思へり
   
くれなゐのホールトマトの缶を開けいつかの夏を鍋にぶちまく