眠らない島

短歌とあそぶ

三田村正彦 第三歌集 『無韻を生きる』

 
 スプーンの光る秋の日なだらかな坂道のやうなる気分 

日常に流れてゆく時間をあるいは感情を、等身大のままの言葉でさしだすとき、こんなに自由に歌える。そんな清涼感を感じさせられる歌集だ。必要以上に、美化しない、あるいは、脱力しずぎない、そして諧謔や皮肉に大げさにもちこまないで、詩に昇華するための最小限の圧力をかけている。その力加減が絶妙である。口語文体を柔軟にとりこみながら、社会的な現実や、内面の現実など、さまざまな角度に歌が動いている。しなやかな語り口によって、生きることの悲しみや、しんどさ、そして喜びの感情が描かれている。言葉はあくまでも平明でありながら、一冊を読み終わると半生を生きたような重厚な感動がからだに残響しているのを感じてしまう。
 
ごみ袋を購ふときは忘れてる 街は規則に縛られてゐる   
空は空海は海だと主張する人がゐるので会議に眠る   
棒立ちの影を夕陽が見つめをり影には今日の感傷がある   
 
 
一首目、この歌集の特色をなす批評性のある歌。作者は様々な場面、題材をとおしてこの社会に生きてゆくことの意味を何度も問いかけてくる。そこに見えてくるのは、なかなか楽にはいかない不自由で、不条理な世界である。
二首目は、職場の歌。職場はもっとも辛辣な現実を押しつけてくる。しかし、それを受け入れながら生きて行くしかない。その葛藤もこの歌のようにある種のユーモアで語られるとき、ひとつ風穴が空いたような気がする。三首目、不毛な一日の終わりの自画像。自分の影をみつめる自己を「今日の感傷」とするときに、ひとしずくの余裕が生まれている。この感傷こそが抒情である。
 
一本のらうそくの火が闇になる父よ祖父母よ 今 ありがたう  
とうさんの箸は茶色でかあさんの箸は赤色 僕がゐない夜   
 
具体的な家族像は見えてこないが、肉親を追慕する歌はどこまでもやさしくて、孤独なひびきがある。一首目、かつての家族とそこに生きていた自身の姿。そのあたたかな過去と現在をつなぐ一本のろうそくの明かりが悲しみを慰撫している。二首目も、父母の存在を箸の色に託すところ哀切である。「僕がゐない夜」とすることで、父母の方から、孤独な現在を照らし出している。
 
米粒をとぎし右手は風のごと波を起こしてただ濡れてをり   
スリッパの片方だけが路地裏に脱がれてゐたるやうなゆふぐれ  
両ほほをたたく音せり汝の持つ白き両手は雨の匂ひだ    
 
一首目は、巧みな歌だと思う。身体感覚が米粒を洗う感触と、濡れた右手に掬い取られており、日常のさりげない所作の悲しみを伝えている。二首目は、路地裏のわびしい光景をさらりとスケッチしている。三首目は、雨に打たれる感触を形象化していて見事だ。
 
印象深い歌はたくさんあるが、歌集中にさしこまれた相聞のかおりのする作品にうつくしい陽ざしをみるような爽やかさを感じることができたのも喜びだった。
 
 
夏の日のモータープール沈黙が似合ふあなたの背景である    
 
君の今のかなりあらはな白鳥のごときふるまひ 僕は見てるよ