川本千栄 第四歌集 『森へ行った日』
午後私はあまりに眠くもたれたき壁を探してゆるく歩いた
歌を読みながら、作者の体のなかに引っ込まれてゆくような、不思議な浮遊感をおさえきいれない。生きて蠢ている感覚をとおして繰り出される言葉が、読む方の表層の意識をはげしく揺さぶってくる。
巻頭にあげた歌にしても、歌の上から下までまったく切れ目がない。途切れない切迫した息遣いが、そのまま読む方の感覚を抱き込んでしまい、無抵抗になる。とんでもなく空虚で、しかも生々しい実体をもった総体があり、それに追随させる力が文体にある。救ってくれる壁はどこにあるのか。
からだは劣化してゆくあなたへと渡したき麦の穂を持ったまま
さきほどの歌に続いて並んでいる一首。こちらも定型は崩されていて、なだれ込んでくるような力を感じる。からだは劣化してゆく、といいながら、それを凌ぐ生への執念のようなものが燃えている。おとめ座の少女は、穀物の神であるといわれていて、手には麦の穂を持っている。ここでは、その麦の穂は渡すべき〈あなた〉を待ち、恋い慕うことで、生きながらえているかのよう。〈私〉の生は、麦の穂を渡すまでは成就することはできない。だから、ひたすらに生きるしかない。
目で見れば富士しか見えねど写真にはうすら汚れた建物ばかり
新幹線で富士山を通過する時、車内放送がかかる。それに反応してつい携帯で写真を撮りたくなる。そんな場面を想定する。これも文体が奇妙に捻じれていて、省略がされているのがかえってリアル。目をとおした知覚と、写真に写し取ったものとの齟齬がクローズアップされている。しかもそこに顕れたのは「薄汚れた建物ばかり」。ということは、目で見ていると思っているものは、実は虚妄なのではないか。客観世界はそうではない。いや、どこにも客観世界など、ないのではないか。ぎょっとするような陥穽を暴露している。
息子からのスタンプのうさぎにハグされて心配な心配な私は泣いた
こちらは、息子への愛情を手放しで詠んでいるように見えて、緻密に言葉は構成されている。
歌集をとおして粘りのある口語体が多用されている。それは感情をありきたりに成型せずに、そのまま手渡す手堅い文体といえるかもしれない。この素手でつかみ取った文体に、読み手は身体ごと持っていかれる気がする。力のある歌集に圧倒された。