松村正直『紫のひと』
てのひらの奥に眠れるわがこころ呼び覚まさんと強くこすりぬ
この歌集は2017年から2018年の2年間に総合誌等の発表された作品だけを収録している。短い時間のなかで集中的に作られた歌群はたがいに共鳴し合あうことで、濃密な情感を醸している。それは歌物語を読んでいるような甘い興奮をもたらしてくれる。登場人物の心の襞に迷い込むような切迫感がスリリングだ。
作者が意図しているのはおそらく「こころの仕事」だろう。いままで外界に向けていた視線を自己の内部にむけることでそれまで見えていなかった自身の原野のようなものを引き出している。自己の内部を覗きこんでも空虚しかでしかない。作者はそこに「君」という他者を置くことで、君をとおして立ち上がってくる「私」の多様な感情やイメージを言葉におこしてゆく。そうすることで、巻頭にあげたような「わがこころ」が初めて可視化されてくる。この歌集にはそうした内面をみせる仕掛けが巧妙にほどこされ、劇的な緊張感をみなぎらせている。
絵のなかの椅子に座りて悲しみのあるいは喜びの紫のひと
絵のなかのあなたに逢いにゆく朝は木々のみどりも微笑むごとし
紫のひとは部屋から出て行きぬ絵のなかに私ひとり残して
一枚の絵という物語のなかに存在する「紫の人」。その絵の中と絵の外とがいつのまにか溶解して境界をなくし、あるいは反転してゆく。主体は絵の中というもうひとつの現実をえることで融通無碍の言葉を同時に獲得する。言葉はすなわち自分自身でもあるわけだ。
上流へむしろながれてゆくような川あり秋のひかりの中を
めぐりゆく一生 ( ひとよ )のうちの一瞬をかがやく水か滝と呼ばれて
アシと呼びヨシと呼ぶこの葦原のなかには見えぬオオヨシキリの巣
蝉の鳴く確かな空はもうなくて大地の裂け目をひたすらにゆく
ここに引いた歌は、いづれも外界に目が向けられている。1首目は秋の川のかがやきを美しく捉えている。上句の比喩が川のひかりを神聖なものしている。2首目は滝、滝の歌は集中に多く詠まれている。なだれ落ちる滝の姿はまるで肉体のようでもあり、またたたくまに過ぎゆく時間の残像のようでもある。3首目は舟遊びする連作のなかの一首であるが、葦の呼び名が替わることでなにかざらつき感をすくいとっている。見えない鳥の巣もどこか不穏だ。4首目は鍾乳洞を歩く連作のなかの一首。大地の裂け目という表現が生々しい。ここに表象されている自然は主観にちかいところに引き寄せられて詠まれている。これらの自然はまるで肉体のようでもあり、外界でありながら内側に食い込むような粘りがある。
体幹がまずは熱 ( ほめ )きてそののちを指の先まで花ひらきたり
もののように人を扱うかなしみを愛と呼び時に憎しみと呼ぶ
あふれでてゆっくり零れる水のつぶ見ており君の正面にいて
さきほどの自然から、これらの官能性へゆくのは必然のような気がする。一首目は桜の描写だがまるで情欲そのものようにも読める。2首目は特に説明も不要なほどあっさりと性愛を詠んでいる。3首目は、「君」をとおしてみずからの性の高揚感を見せている。
ここで形を与えられているのはやはり愛ということだろう。生はいつも死によって傷つけられる。その有限性を越えるのが愛の陶酔感だがそれも一瞬のことであり、存在することは儚い。この歌集で一貫して問われているのは生の一回性ということのような気がする
やがてみな死ぬと決まっている日々の、それでも朝のシリアルを食む
生まれかわることはないからゆっくりと、ただゆっくりとゆうぐれは死ぬ
一度しかない人生の一度目を生きて迷えり昼のメニューに
目を閉じてのぼるひばりよ永遠と呼ぶものどれも永遠でなく
われわれは限りある生を生きてゆくしかないが、だからこそもっと遠くへ行きたい。世界の外へならどこへでも。そんなせつない思いがこの歌集につややかな言葉をひらいている。
抱くことも抱かれることも秋だからつめたい樹々の声にしたがう