眠らない島

短歌とあそぶ

櫟原聡 第七歌集 『華厳集』


店先に盛られし蜜柑の一山にあつまりてゐる日暮れのひかり  
 
 
 端正な文体のなかに透きとおるような清冽な詩情が流れる。歩きながらふと目にした一山の蜜柑にもひかりは当たり、そこに時間が生まれることで蜜柑は存在感をもって読者のまえに美しく差し出される。櫟原聡第七歌集『華厳集』は静かな日常の時間のなかに深く身をおき、そこから森羅万象を感じ取るところから歌が始まるようだ。
 
雨あがり雲のすきまに見ゆる青空生きるとは沁みて思ふこと  
 
 
「生きるとは沁みて思ふこと」と作者は言う。「沁みて思ふ」ということ、この言挙げこどがこの作者の歌のエッセンスであろう。人の姿も、物のありようも一旦作者の思考の内面に引き受けられ、ことばを与えられる。そこには深い認識や洞察の時間がある。その時間こそはこの作者のこころが自在に遊びをしている世界ではないだろうか。歌集を読んで押しつけがましい印象はまるでない。ここちよくこころと言葉がひびきあうように歌がとおり過ぎてゆく。そこには思惟の時間によって濾過され、ふうっと息をはくように詠嘆された歌がある。
 
 
足萎えの転倒菩薩母にしていまもさかんにもの言ひたまふ
灯の入りて学習塾はあたたかし広き窓辺に動く人影   
予備校の屋根にかかりし冬の月自転車の子が三人帰る  
 
作者の人を見る眼はあたたかい。集中には老いた母の歌が散見するが、一首目のようにそれを嘆くわけではない。どちらかというとユーモアを交えて敬愛をこめて詠っている。こういう軽さはある境を越えたところに獲得される透徹した姿勢ではなかろうか。二首目、三首目は子ども達への視線が感じられる。学習塾や、予備校を批判的に硬直した眼でみるのではなく、そのなかで勉強に励んでいるひとりひとりの子ども達を尊いものとしてあたたかく見守る作者の眼差しがある。こうした公平で、ヒューマンなこころがこの作者の歌にすがすがしい品位をあたえているようだ。
 
空に住めぬ小鳥の帰りゆくところ廃寺の森は夕明かりする   
詩の中にゐて街角の灯明かりに音なく雪の降るを見てをり  
 
一首目は「廃寺」という語がとてもよく利いている。上の句の心優しい把握のしかたが印象的でありながらそれを「廃寺の森」でうまく引き締めている。二首目「詩のなかにゐて」というフレーズが心にのこる。一首全体にのびやかな浪漫的な響きが生まれている。この浪漫性も師である前登志夫から引き継がれた詩性であろうか。
さまざまな物象に感応しながら抑制された表現で、なおかつ澄んだ抒情がどの歌にも籠められている。こころしずかにいたいとき、この歌集をときおりひらく。すると次のような歌にでくわす。ここにも静謐な日常を生きる時間がある。
 
 
腕時計はづして出づる春の街時のしじまに忘れ物する