眠らない島

短歌とあそぶ

阪森郁代 第七歌集 『歳月の気化』


さざなみを立てて過ぎゆく歳月を南天は小さく笑つてみせた 
 
 阪森郁代の歌を読んでいると、日常の重力から脱けて外側に出たような不思議な明るさがある。それは、どちらかというと反私性の方向へむかう詩情から感じる軽やかさかもしれないし、またその思索的でありながらどこかアンニュイな雰囲気が醸し出す浪漫性に心地良く誘いこまれてしまうせいかもしれない。実生活のうえでは日常の時間から離れきることはできないが、言葉の世界では時間の重みからも自由になれる。そこに降りて行けば静かで豊かな知的世界があり、そこでこそ阪森は本質的な存在になれるのかもしれない。
 
 冒頭に挙げた歌は、この一首では前半は「歳月」を提示しながら、もちろんそれは、主体自身に流れる歳月でありながら、下句では「南天は」と主体をすり替えて他人事のように流ししてしまう。現実の重みを背負った「私」は一瞬にしてかき消えて、ささやかな「南天の実」と大きな「歳月」とが拮抗して詠まれている。「私」はあくまでも相対化されて、歌の全面には登場しない。なんだかはぐらかさたようだが、歌い挙げないクールな姿勢というのは言葉が過剰に使われず余白があって小気味がいい。
 
すひかづらの実のなるあたりを見上げつつきのふに隷属しない生き方  
 
この歌などはどちらかというと大胆不敵な感じがする。上の句にかなりこまやかな景を置きながら下句はそこから意味をあまり引きずらない述志の納め方がさらりと人をくったようだ。しかも「きのふに隷属しない生き方」とは、日常に浸食されることを拒むのであり、やはりここにも純粋な精神性を優先させようとする作者の美意識はあきらかだ。今、時代が混迷し、歌の世界にも否応なくその余波が押し寄せている時代にこういう言挙げは詩の世界に踏みとどまっているようで、ほっとする。
 
空といふ大きまやかし現れてリアルな蝶をまた見失ふ   
凡庸がいいと( うなづ)き合ひながらきのふは午後を梅田にゐたり    
家居なるたつたひとりを置き去りにギアを入れてクロネコは去る  
 
一首目、空がまやかしといい、リアルな蝶を見失うとあるが、実は見失いたいという願望であるのだろう。美しい蝶といえども、それが現実の世界に属するものならば、虚構の世界にあそばせてやりたい。まやかしこそは言葉なのかもしれない。それでいいわけだ。二首目は、「凡庸でいい」と軽いお喋りの台詞にどこか明るい倦怠感が漂う。下の句では、それが「きのふ」とされて時間が逆流している。その瞬間にふわりとした浮遊感、あてどなさが余韻として読者に手渡される。「梅田」という固有名詞を打ちこむことで、この歌を流されてしまう危うさから立ち上げている。三首目は、なんでもない日常の出来事を取り上げながら、取り残される主体の孤独がくっきりと提示されていて印象深い。ただこの孤独は明るい孤独のような気がする。家に残される主体は、その続きの「たったひとり」の静かな時間へふたたび戻ってゆくことを寂しがりながらも望んでいるように思える。
 
日本橋のべつたら市に行くと言ふイエスに疑念を( いだ)きゐるとき     
 
知的で硬質な抒情が核にありながら、その詠みぶりは柔らかく脱力している。時間を重ねて編み上げられてきた精神世界は厚い石壁で掩われることなく、どこからか自然光が差し込み照り翳りして自足している。ここでは「日本橋のべつたら市に行くという」がそうだ。「イエスに疑念を抱」くという思惟の時間と日常の猥雑な時間を往還する意識。ここには熟達した技が捉えるリアルな手触りが実現している。
読むものは、そこに身を寄せてこの不思議でかつ成熟した時間と感覚を言葉で楽しめばいいと思う。
 
一品を買ひ足すことで良しとせむ南蛮仕立てのワカサギが待つ