眠らない島

短歌とあそぶ

『パンの耳』5号

近所のパン屋さんはとても人気があって、ときどき行っても長い行列ができているのでがっかりする。

今日は、買いに行こうって思わずに散歩しながら近くまでいくと、運よくすいていた。

パン屋さんの後ろには広いため池がひろがっていて、まわりを木立が囲んでいる。

冬のあいだ葉を落とした疎林のあいだから、水面がきらきらかがやいている。

ほっそりとしたこの冬木立のそばを歩くのがなにより楽しい。

やはり、パン屋さんへはときどき行こう。

 

『パンの耳』5号がとどいた。もう5年になるんだね。

素敵な歌がたくさんあって、楽しく読みました。

 

 

『パンの耳』5号より引きました。

 

木村敦子

弓なりに海に沿いつつ石垣の家並みまばらになりてゆくなり

紀水章生

体内のみずというときその水に浮かぶ大きな月が震える

乾醇子

薄ら陽の斜めに差し込むその日より秋とはなりぬ尾花なでしこ

岡野はるみ

映像の焚火に見入ってしまう夜 それはわたしの火ではないのに

河村孝子

ピエールきみの名のひびきが好きだった耳への余韻ごと抱きとって

長谷部和子

「船具商」とかすかに読める倉庫壁海へと注ぐ木津川近く

添田尚子

昆虫のにおいだ 揃いのTシャツの男子がごそりと乗りこんでくる

鍬農清枝

老いるとは澄んでゆくのか濁るのかとりとめのない感情が舞う

弓立悦

浅みどりの蛹にあわく透けている折り畳まれたキアゲハの翅

松村正直

今日こそは書こう書こうと思いつつ避けている時がいちばん手紙

佐々木佳容子

立ち止まる人もなくなり葉桜にほっとしてるわたし、桜も

甲斐直子

じっとりと首つたう汗、人形の私が硝子の扉を閉める

森田悦子

飛び立つも休めるもゐて公園の冬の日向に群れてゐる鳩

                     

 

 

 

永田愛 『LICHT』

今日は久しぶりにあたたかな一日。

冬の日差しを浴びた木がみたくて公園まで歩いてきた。

透き通るようなヒマラヤ杉がまっすぐに空を突き刺していて、おもわず天を仰いだ。

 

ひかりはくまなく地上にゆきわたっている。

永田愛の『LICHT』を開いた。LICHTはドイツ語で光のこと。

表紙が黄色が木漏れ日のようで、指に触れたらほっとする。

歌に使われている言葉がやわらかで寄り添ってくるようなぬくもりがある。

 

『LICHT』から引く

 

森からは遠く離れている町の 森へとつづく道を知りたい

飲みかけの水を机に置くときのペットボトルのおもてのひかり

触れたらばたちまち解ける春の雪あいたいひとは遠くに暮らす

啼く空をなくせば雲雀もさみしいにちがいないってあなたは言った

ひまわりの写真を撮りに外へ出るアンクル丈のデニムを履いて

北岸に暮らしていても晴れた日は眉山が見えて窓に呼ばれる

祖母だけが撫でてくれるよ頼りなく暮らす大人のわたしのことを

うしろへと移る景色にトンネルや樹の塊がときおりあって

                    『LICHT』より

 

どの歌にも、遠く離れたものへのあこがれや祈りがひびいている。

あかるさのなかのさみしさが、うすい光のように肌に触れて来きて、

かえって読む者を安らぎに導いてくれる気がする。

5首目、6首目、8首目には動きがあり、やさしく景色が見えてきて

それが歌集に一筋のひかりを挿しこんでいる。

 

 

 

 

 

平岡直子 『みじかい髪も長い髪も炎』

ただ風に吹かれるという苦しみもあるのでしょうね煙草一箱   

 

過ぎてゆくものに抗いもせずにただ見送るしかないとしたら、それを苦しみと名付けるとしたら、存在とはなんともやるせない。普通こういう文脈では、木がよく登場するけど、ここでは「煙草一箱」というずいぶん卑近なものがぽんと投げ出されることで、なんとなくそこに人の気配を感じてしまう。永遠という風に吹かれて、絶対的な孤独を負わされているちいさな煙草の箱がふるえている。

 

ダウンジャケットいま転んだら12個の卵が割れてしまう坂道

 

ダウンジャケットが主体そのものだろうか。羽毛で包まれたダウンジャケットだけど、安全とはいえない。ダウンジャケットが12個の卵を割ってしまうという惨劇がいつだっって起こるのが坂道。このとき12個の卵はどこか希望のようなものとして、描かれているのかもしれない。だれでも割れそうな12個の卵を秘めている。

 

見たこともない蛍にたとえるからにはいつか蛍を見るのだろう

 

見たこともない蛍というのが純粋な想念そのもののようで、実際の蛍よりも、美しくて幻想を孕んでいる気がしてしまう。いつかは蛍を見るのだろう、という願いが儚く響いてくる。観念の蛍がそのまま、聖なる蛍として魂を照らしてくれるときが来るような、そうであれば、いい。

 

春といえばワンピース。ワンピースといえば夏。夏が終われば秋。   

 

やはりワンピースをかろやかに着るのは春から夏だろうか。ワンピースをとおして季節感がいきいきと輝いている。春から夏へという、生命感にあふれた季節をわたり、やがて秋。

身に付ける洋服でたしかに季節はかわってゆくことを私たちは知るのだけど、それは素敵に新しくて繊細な感覚のように思える。こうして、巡る時間のなかに生きているのか。

 

絵葉書の菖蒲園にも夜があり菖蒲園にも一月がある    

 

たぶん手元にあるのは絵葉書なのか、絵葉書に訪れる夜、そしてそこから実際の菖蒲園へと想念が飛ぶとき、時空を簡単に超えて、世界がひらかれるような自在な発想がある。さっき、実際とかいたけど、それは現実の菖蒲園なんかではない。想念の中に存在するピュアな庭園だ。こんなに簡潔な表現にこめられた、小さな世界からうんとひろい宇宙へ羽搏いてゆくような、あこがれがせつない。

川本千栄 第四歌集 『森へ行った日』

午後私はあまりに眠くもたれたき壁を探してゆるく歩いた   

 

歌を読みながら、作者の体のなかに引っ込まれてゆくような、不思議な浮遊感をおさえきいれない。生きて蠢ている感覚をとおして繰り出される言葉が、読む方の表層の意識をはげしく揺さぶってくる。

巻頭にあげた歌にしても、歌の上から下までまったく切れ目がない。途切れない切迫した息遣いが、そのまま読む方の感覚を抱き込んでしまい、無抵抗になる。とんでもなく空虚で、しかも生々しい実体をもった総体があり、それに追随させる力が文体にある。救ってくれる壁はどこにあるのか。

 

からだは劣化してゆくあなたへと渡したき麦の穂を持ったまま  

 

さきほどの歌に続いて並んでいる一首。こちらも定型は崩されていて、なだれ込んでくるような力を感じる。からだは劣化してゆく、といいながら、それを凌ぐ生への執念のようなものが燃えている。おとめ座の少女は、穀物の神であるといわれていて、手には麦の穂を持っている。ここでは、その麦の穂は渡すべき〈あなた〉を待ち、恋い慕うことで、生きながらえているかのよう。〈私〉の生は、麦の穂を渡すまでは成就することはできない。だから、ひたすらに生きるしかない。

 

目で見れば富士しか見えねど写真にはうすら汚れた建物ばかり   

 

新幹線で富士山を通過する時、車内放送がかかる。それに反応してつい携帯で写真を撮りたくなる。そんな場面を想定する。これも文体が奇妙に捻じれていて、省略がされているのがかえってリアル。目をとおした知覚と、写真に写し取ったものとの齟齬がクローズアップされている。しかもそこに顕れたのは「薄汚れた建物ばかり」。ということは、目で見ていると思っているものは、実は虚妄なのではないか。客観世界はそうではない。いや、どこにも客観世界など、ないのではないか。ぎょっとするような陥穽を暴露している。

 

息子からのスタンプのうさぎにハグされて心配な心配な私は泣いた   

 

こちらは、息子への愛情を手放しで詠んでいるように見えて、緻密に言葉は構成されている。

 

歌集をとおして粘りのある口語体が多用されている。それは感情をありきたりに成型せずに、そのまま手渡す手堅い文体といえるかもしれない。この素手でつかみ取った文体に、読み手は身体ごと持っていかれる気がする。力のある歌集に圧倒された。

『パンの耳』2号

松村正直さんが主催する「フレンテ歌会」。今年、三月に「パンの耳」創刊号の読む会に招いていただき、とても楽しい時間を過ごせて、いい思い出になった。次はどうかなと思っていたら、はやばやと2号が届いた。今回はメンバーの一首評もありさらに充実している。


甲斐直子
銀紙をたくさんちぎったような海 いきなり大人になってはいない
足跡のむすうに残る砂浜にメリケンガヤツリ茎ほそく萌ゆ

〇1首目、過去と現在の時間を往還していて、こころが揺れている。下句のきっぱりとした言い切りに悔いのような痛みが込められて印象深い。

木村敦子
おのずからひとの踏み来し道ならむ浜へと続く海あかりして
暮れ方にひかりの帯を差し入れて橋を架けたり岸辺のわれへ

〇旅先の海辺だろうか。浜へ続く道が丁寧に描写され旅愁が漂っている。2首目、ひかりの橋がほのかな希望のようにも思える。

乾醇子
行く道は一つの流れあるらしく流されゆかな楽しみゆかな
川向かうに飛ばされさうな吹き流し園児の描きたる鯉 風にのる

〇こころが外界へあかるく開かれていて、風通しがいい。1首目のリフレインが歌の内容とうまく絡み合っていてのびやかなリズムがある。2首目、川風に飛ばされそうな吹き流しが園児の存在を喚起して生き生きと描かれている。

添田尚子
誰にかはわからぬけれど挨拶をしながら乾いたオフィスに入る
つり革を持たずに終点までいけば合格というひとりのあそび

〇一連のながれから就職試験にのぞんでの起伏のある心理が迫ってくる。一首目、乾いたオフィス、という表現が印象的。まだ、繋がりのない人達の中へはいってゆく緊張感がよくでている。

河村孝子
日暮れみち黒革手袋落ちていて指袋のまま手が這ってくる
影があることが嬉しいときどきは真ん中を開きわたしを入れてね

〇道に落ちている手袋はどこか生き物のようで不気味。指袋という言葉に存在感がある。
二首目は不思議な歌。自分の影のなかに入りたいということか。倒錯した感覚が面白い。

鍬農清枝
空澄みて看取りし悔いの幾つある素知らぬ顔で猫のすぎゆく
献立のきまらぬままに葱きざむ厨の闇の濃くなるゆうべ

〇どなたか近しい人が亡くなられたのか。看取りにからむ記憶が淡々と詠まれている。人は記憶のなかで生きていることを思う。2首目も、たちまち過ぎてゆく現在という時間の不安定さを見つめているようだ。

升本真理子
行くたびに米はあるかと訊かれたり七分搗きには小石混じりて
組合に任せば米は作られて その米を買うことになるらし

〇農業は食にまつわるだけに、営む人がいなくなると生活の芯を失うように寂しい。1首目は、農業をまかせていた人への追慕。小石を言い添えるところに苦さがある。

弓立悦
死をかくまう海の明るささいはての珊瑚の島に猫はまどろむ
航海の船に生まれた多指猫はしあわせ呼ぶともてはやされて

〇物語性のある一連。指が一本多い猫が、あちらこちらに出現し、人の生死という運命をあやつるように思えるのが不思議。

松村正直
お墓とは思えぬほどの明るさの古墳広場の芝に寝ころぶ
あれは、ああヤコブの梯子 あざやかに天国は今もあるのだったか

〇大きすぎるものは、その意味を変えてしまうのか。古墳はまさにそういった意味で死を異化する装置。寝ころぶと、包み込まれるような安らぎがある。天国という想念もまた同じ。

森田悦子
「お紅茶でも入れましょうか」と霧雨の降る冬の午後わが独り言つ
過ぎゆきはなべて些細な出来ごとと思へるほどに歳を重ねて

〇身近な人を送りつつ、残された自分におとずれる静かな時間と向き合っている。こうした自足したこころが似合う年齢というのがあるのだろう。


岡野はるみ
何もかも桜が覆ってくれるからいつもはしない話のいくつか
少女らは桜ソフトを食べながら過ぎる 異国の言葉交わして

〇桜の花は圧倒的な量感によって人のこころを高揚させる力があるようだ。1首目はそんなさくらの力を捉えている。2首目はさらりとしたスケッチで明るい。

佐々木佳容子
からだから息が離れていくように匂う梔子 月を惑わす
さからわず風に揺れいる竹群の主語でも述語でもなく生きて

〇体感をとおして詠まれていて生なましさが迫ってくる。月が惑わされるという見立てが面白い。月にも生命が通っているようだ。2首目、上句の景と下句の志が適切。

長谷部和子
欄干より運河をのぞく混雑はさらに増しをり戻る人もゐて
顔の右近づけながらこゑを聴く耳を病む人も旅に加はる

〇旅先での歌がつづく。1首目、見知らぬ土地の運河を見ている作者をとりまく雑然とした空気感がよくでている。2首目、他者の描写に存在感がある。

林田幸子
病む犬を抱いて行く道ハナミズキ咲いていたのかいなかったのか
ウォーキングと犬の散歩の違いなど話して夫とふたりのくらし

〇飼い犬を亡くした悲しみを詠みながら、重くはならない。犬とハナミズキの取り合わせが美しくてせつない。夫と犬がいいたころの時間を今も共有していることに救いがある。

小坂敦子

よき声で温めますかと訊かれたりレジに並べる病衣のわれは
人工の島へと続く「あゆみばし」渡れば未来に会うかもしれず

〇入院中の身のたよりなさや不安を軽いタッチで詠むこと容易ではない。ここではよき声で、と意外な入り方をすることで成功しいている。2首目の橋の名前もよい。

 

近藤かすみ 第二歌集 『花折断層』

むかしより加茂大橋のほとりには廃園ありてひぐらしが啼く   

 近藤かすみの第二歌集『花折断層』の世界は言葉の熱量がほどよく適温であり、心地よく読むものの感情に寄り添ってくる。過剰さが削がれ、押しつけがましい主張やこれみよがしの修辞、あるいは美意識へのこだわりもない。物や景を丁寧に描写しつつ、手触りのある世界を作り上げている。大人の歌集だなあと心底感服してしまった。つつましく抑制された表現が、それはそう簡単ではない熟達した言葉の斡旋の巧さなのだが、歌集全体の品のよさを覆っている。第一歌集からの明らかな飛躍と成熟をまざまざと見る思いがした。
 巻頭の歌は一読してこころに残る歌だった。それは「廃園」というところに気持ちがいくからだろう。過ぎゆく時の流れによって失われるもの、あるいは不在であることへの感応。
それは普通、ネガティブな感情を喚起するが、この作者には「不在」であることポジティブに受け入れる感覚が表れているようにも思える。

耐へきれぬ一粒ありてそののちをなだるるごとく雨降りはじむ   
サルビアの緋色褪せたり昼すぎの馬の居らざる馬小屋のまへ  
くりかへし言はるることは聞きながす耳にふたつの琥珀のかざり  
ヨシカワさんヨシカワヒロシさんと呼ぶ声響く午後二時の廊下に  
金網の下を土鳩はくぐりゆくそこだけ草の少なきところ       

1首目、雨の降りだす間際の気配をよく捉えている。「耐えきれぬ一粒」は落下する瞬間に耐える力を手放している。雨はその力を失ったあとの景ということになろう。何かが消失したこと、そのあとの雨にどこか安堵を感じとる直観が働いている。
2首目、長崎のグラバー邸を訪れた時の一連に差し込まれている一首。馬小屋の前にたちながら、そこにはもう馬がいないことに気持ちがゆく。それをあえて言葉にすることで、馬がいたころの屋敷の暮らしや時代が浮かび上がって動いてくる。しかし、やはり現実は何もない。そこにもう一度思いは立ち戻るしかけだ。「馬の居らざる」という一言ですべてを語っている。そして不在であることに安らぎがある。うまい歌だ。過剰さや意味の厚塗りを避けようとする修練の技。
3首目、これがこの作者の本分かとも思い、思わず目が留まった。繰り返し言われる事は耳障りな事だ。そういう過剰さから身を離して自身の世界を保っている。この作者の歌の作り方とも共通するように思える。
4首目、病院の待合室での出来事か。アナウンスの声に反応している。ヨシカワヒロシと呼ばれている人は、歌人吉川宏志か、あるいは同姓同名の人か。どちらにしても作者の想念に浮かぶ人がいるだけで、本人は不在である。不在でありながら、名前を呼ぶ声があることで、ありありと存在感が立ち上がってくる。
5首目、金網と地面のあいだにわずかなすきまがあるのだろう。そこから鳩が出入りしている。作者の目はその鳩にいくのではなく、わずかな草のへこみにフォーカスする。そこを言語化することで空間があざやかに見えてくる。鳩はもういない。草がすくないところと草の多いところ。その違いが気持ちをほんの一瞬波立たせている。
ささやかな違和感と言えるのかもしれない。そういう落差を手掛かりにしながら世界をこまやかに観察し、くっきりと認識してゆく。歌集中には丁寧な描写の歌が精彩を放ち、読む者のこころを潤してくれる。

落差ある処をしぶく水のあわ鴨川(かも)の流れに白き帯なす       
草の上に手押し車のやうなものうち捨てられて午後の陽だまり   
きまかせに七羽はうごく刻々と水のおもての景かへながら   

 こうした言葉の均整の美しさに目を引かれたが、この歌集でさらに新しく思えるのは目に見えていない世界に思いが飛ぶ歌が少なくないところだ。そこにこの作者の独自の感覚が開いているような気がする。これからの展開がますます楽しみになる。

大根の五センチほどをおろすとき津の国にいまし雪ふりそめむ  
降りるときまた揺れるのだろう縄梯子きれいなままにまた畳まれて  
わが手より清らかならむ他人の手の作りし高菜おにぎりを食む  

 

尾崎まゆみ 『レダの靴を履いて』

レダの靴を履いて」は2010年7月から、2012年6月までほぼ2年間をかけて筆者がブログに綴った塚本邦雄の歌についての鑑賞である。ひとつひとつのコラムにはみずみずしく季節が流れ、筆者の暮らしの時間や空間がほんのりと香っている。なんともゆるくて心地の良いおしゃべりを聞いているように読んでしまう。とはいっても読後感は相当に濃厚である。読み終わると、それまでの重い塚本邦雄のイメージがすっかりかわって、軽やかな塚本像が立ち上がる。それは鮮やかな体験だ。そしてなによりもこの一冊が塚本邦雄を読む楽しさを教えてくれることである。それはひいては短歌を読むことの楽しさそのものであろうか。

来年は塚本邦雄生誕一〇〇年、それにあわせて総合誌に塚本に関する特集が目立つ。そして多くの歌人たちは塚本の歌を政治的な面から解釈し、その手法もその主題との関りで記述されることが多いように思う。ところがこの本を読むと塚本の歌がそういう定式からはずれ、ふっと重力が解かれたような自由さを感じる。たとえば、冒頭に引かれている歌。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 『水葬物語』

前衛短歌の狼煙のように掲げられたこの歌は、政治的な読み方や、また短歌革新の手法からもさまざまに論じられているが、尾崎はこの歌を鑑賞するのにまずシャガールの幻想性とつなげて語り始める。

あかるくて物悲しい赤と青に彩られた幻想的な絵の底に流れる感情と、歌の底に流れている感情は地下でつながっている。そんな気がしてしかたがないのです。

こう語りかけられることで歌は確かにシャガールの物悲しさと明るさに彩られた絵と共鳴してひとりでにピアノが鳴りだすようにも思えてくる。ここに展開されてゆくのは、歌を想像力を動かして自由に読むことの楽しさであろう。難解さで知られる塚本の歌を、実に楽しげに読み解き、あるいは、読み解くことをあえて放棄することで、その世界にふわりと遊ぶことをやわらかな語り口で教えてくれる。まるで読むものひとりひとりに語り掛けるように。それでいて塚本の歌の本質をまるごと掴み出して指示する語りのリズム感が読む者を魅了する力をもっている。
たとえば、こんな箇所を引こう。

短歌は物事を正確に伝えるためにあるのではなく、エキスを絞り出し、真実を掬い取るためにある。という塚本邦雄の考え方のもっとも尖った部分に、この歌はあります。私は見て楽しみ、読んで楽しみ、その言葉たちのもたらすイメージとともに楽しんでいます。

一首の短歌はそのままでも十分楽しめますが、魅力のあるフレーズは、さまざまな人に愛され、本歌として使われて、伝えられてゆくのだなと思うと、楽しいですね。

こういう不思議系の歌の、正しい読み方はないので、ひとりでワインでも飲みながら、言葉たちが生み出す複雑な雰囲気をゆっくりと味わいたいですね。

 しなやかでしたたかな語りの背景にはこの筆者がふかく塚本邦雄の懐に入り込み、その美の本質に肉薄してきたことがあるだろう。そしてそれは塚本の歌を愛し、楽しみ、その世界に遊ぶ何よりも幸福な時間であったことだろう。この一冊はそのように歌に関わる至福を伝えているように思う。