眠らない島

短歌とあそぶ

「近代短歌を読む会」報告  第1回

〇 はじめに会について

2010年代にはり、歌が近代短歌がえりしているということが指摘されるようになった。
そういう論調には「近代短歌」を乗り越えてきた現代短歌の地平からみたとき、それでいいのかという懐疑にたっているように思える。また、今の混迷した短歌の状況にあって、短歌で何を表現することが可能なのかが見えなくなっているという閉塞感があるようにも思う。
 それにしても、「近代短歌」とはそもそも何だったのか、それが始動を始めたとき短歌を取り巻く状況はどうだったのかを検証しながら、苦闘しながら個々の歌人達がきりひらいてきた「近代短歌」の実相の場にもういちど立つことはさほど無意味でもあるまい。
 
このような漠然とした目的であるが明治末期の歌集から、近代短歌の奇跡をたどってゆく語りの会を始めた。ここでは、メンバーのそれぞれが、既製の読みを外して、自身の感覚で感想を披瀝することを前提としてすすめていく。毎回、何かの結論が得られるわけではない。ただ一冊の歌集を読むことで、ひとりの歌人とであい、表現することの意味についてそれぞれが考えてゆくことの始点になればいいと思う。
 
第一回 北原白秋『桐の花』
 
〇メンバーが三首抄出したてきた中からの抜粋
 
  1. 病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出
  2. やはらかに赤の毛糸をたぐるとき夕とどろきの遠くきこゆる
  3. 食堂の黄なる硝子をさしのぞく山羊 ( やぎ )の眼のごと秋はなつかし
  4. ほそぼそと出臍の小児笛を吹く紫蘇のはの畑に春のゆうぐれ
  5. 手の指をそろへてつよくそりかえすうすらあかりのものつれづれ
  6. 時計の針ⅠとⅠとに来るときするどく君をおもひつめにき
  7. ひやりと剃刀 ( かみそり )ひとつ落ちてあり鶏頭の黄の黄なる庭先
  8. サラダとり白きソースをかけてましさみしき春の思ひ出のため
  9. ふくらなる羽毛襟巻きのにほひをあたしむ十一月の朝のあひびき
  10. 夏よ夏よ鳳仙花ちらし走り行く人力車夫にしばしかがやけ
  11. 十一月は冬のはじめてきたるとき故国の朱樂の黄にみのるとき
  12. 君と見て一期の別れするときもダリアは紅しダリアは紅し
 
【メンバー発言の要旨】
 肯定的な意見
 1 新鮮な抒情・美的感覚を見事に定型に収めている。
   2 写生が先にあるのではなく、自分の感情を立ち上がらせるための写生による景がうまく一首のなかに収まっている。    
   3 感覚が生き生きとしており、その感覚を生かす表現が適確であり、よく伝わってくる。
   4 色彩を歌のなかにいかし、感覚と結びつける方法が多くあり華やか                な印象。
 
  5 二物衝撃の方法で、イメージを飛躍し、そこに抒情を生み出している。   
    リズムとトーンがうまく絡み合って愛唱性がある。
    全体にロマンチックなあこがれが流れている。
  6 使われている言葉が新鮮で、白秋の感覚によって捉え直され、既製の秩序から解き放たれた言葉と物のあらたな出会いと発見がある。
  
 
【否定的な意見】
 
  1 きれいな歌すぎて苦しい。感覚に流れてガツンとくるものがない。
  2 抒情の押しつけが多く、読んでいてしんどい。とくに感情だけで詠んでいる歌は反発を感じる。
  3 五七五七七にきっちり収めてしまい、一首のなかかで完結してしまう。
    吟詠ということが意識され、設計された結果ではないのか。
  4 全体が古今調で音の響きがよく声調もよい。音からくるイメージも新しい。
    ただ、言い過ぎてしまい、オチを付けてしまうところが歌を読む方に単調な印象をあたえてしまう。
    ⑪のようになんでもないことを詠んだ歌がうまい。

  5 同時代『赤光』はきもちの悪い美をあえて読んでいるが白秋はひたすら、美しいイメージを追いかけている。また、茂吉の方は予想が付かないようにつくる方法に意識的であるが、白秋は調和的である。 
 
  議論をとおして

   やはり短歌の求めるものの一つとして「感情の投影」ということがあるが、その点、白秋は自分なりの方法、文体をつかみ出しているのではないか。
    ただ、気分に流れている部分も多く、とくに「哀傷歌篇」までは自身の葛藤がなく自我意識としてはあわい。
    しかし、この時期あたらしい感覚的な表現を立ち上げ、ありきたりの言葉にかがやきを持たせたことは近代短歌にとっても文学にとっても大きな意義があるのではないか。


◎ 参考文献  一部省略しています
 
 
                            
【3】明治四十四年十月「文章世界」による「文界十傑得点表」
 
 詩人
一萬一千四十六  北原白秋
三千三百四    蒲原有明
四百八十三    与謝野寛
四百七十六    三木露風
 
九千七百二    与謝野晶子
三千八百十五   佐佐木信綱
一千二百六十七  前田夕暮
五百九十四    若山牧水
四百三十四    窪田空穂
三百八      金子薫園
 
 
【4】歌論、その他
  1. 「桐の花とカステラ」
    短歌は一個の小さい緑の古宝石である。古い悲哀時代のセンチメントの ( エッセンス )である。…
    私も奔放自由なシンフォニーの新曲に自己の全感覚を響かすあとから、寂しい一絃の古琴を新しい悲しい指さきでこころもちよく爪弾したところで少しも差し支えはない筈だ。…私はそんな風に短歌の匂に親しみたいのである。(「創作」に発表 明治43)
     
  2. 「昼の思い」(『桐の花』所収)
 業平の赤い調べはまさに感じ易い夜の蛍のセンチメントである。私たちは時としてその繊細な平安朝の詠嘆、ないしは純情の雅やかなるすすり泣き、若しくは都鳥の哀愁調に同じうららかな心の共鳴を見いだす事ある、しかしなほ苦い近代の芸術にはまだその上の堪えがたいセンジュアルな日光の触覚と渋い神経の瞬きとを必要とする。
 
笛の匂いを知れ、完成された大和歌の心根に更に悲しい銀光の燻しをかけよ、ただ懐かしいその笛に強ひては残虐な煤煙の濁りと工場の鉄の響きを吹きかけるな。
 
  1. 「ふさぎの虫」(「朱樂」大正2・1)
 
而しておしまいには二人とも監獄に墜ちて了しまつた兎に角又右の目が熱と霊魂に喰ひるように覗き込む汝達はあまりに夢想家だつた。殊に汝は現実そのもの生活をあまりに芸術にしすぎた。(略)初めはそれほどにもなかつた汝がどうしてまたあんなに急に夢中になつてしまつたのだ、と右の目が剃刀の下から嘲うように食ひ入つてくるそれは俺にも解らない、只俺の芸術至上主義が俺自身を妖艶な蠱惑と幻感の世界に昏睡させてしまつたのだ。罪悪がそこで醸された。つくづく俺は俺の魔法の空恐ろしさを知つた、而して女の美しさを
 
 
【5】『桐の花』までの初期短歌
 
明治35年『福岡日日新聞』掲載
 
 此儘( このまま)に空に消えむの ( わが ) ( よ )ともかくてあれなの虹 ( うるは )しき    (明治35・6)
参考
石川啄木『明星』の掲載初めての歌
   血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋 (明治35・10)
 
『文庫』に投稿した歌
  夕されば天なる恋をうつくしみ夢見るらしき野の月見草   (明治35・11)   
  蜜吸ふと蘂に下りたる若き蝶の罪に暮れゆく紅芙蓉の花   (明治36・2)
  小野は春の緑かよわき朝嵐罪あたらしき頬をもこそ吹け   (明治36・12)
 
『明星』に発表された歌  
  花罌( はなけ) ( し ) ( し )報知 ( しらせ )うつ ( きょく )玻璃 ( はり )へだててあかく日てらす夕  (明治40・6)
わが( くぐひ)朝の寝椅子をつとはなれはや歌ひつつ化粧室 ( ひはひや )にゆく  (明治40・11)
白鳥(しらとり) ( いた )み死ぬ日も ( は ) ( あぶら )塗るを忘れず ( はし )つけて啼く    (明治40・11)