眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌を読む会 第16回 北原白秋 「雲母集」「雀の卵」

この会を始めて、二回目に白秋の「桐の花」を取り上げた。あれからもう二年。今回からふたたび白秋に帰る。

北原白秋は私の恩師だった米口実の師だった。米口先生は、おりおり白秋のことを語ったけれど、それはなかなか複雑な思いだったようだ。あるときは、白秋歌の韻律の美しさを絶賛し、その気品を学び身に着けたことをわが誇りと胸をはった。しかし、ある時は「白秋は浅い、茂吉と違って自我が浮薄だ、軽薄だ、お調子者だ、だから面白くない、そういうダメなところが俺とそのままおんなじなんだ」と苦々しく吐き出すように語った。一体白秋とはどんな人間だったのか。そして何が多くの詩人や歌人を引き寄せたのか

数々の童謡や歌謡を作詞した人、きらびやかな感覚的な近代詩の草分けであり、その天才的な美しい調べや、明るさは児童自由詩運動に発揮されることになる。白秋はいわばプロの詩人である。さまざまなメディアを活用し、詩業でもって、生計を立てていった、戦前では稀有な存在である。歌人としての白秋はその一面にすぎないが、のちに白秋自身が述べているように白秋にとって歌は精神の「聖域」だった。その白秋の精神に少しでも迫ってみたい。
 
 名歌集の誉れの高い第一歌集「桐の花」から続く、あとの白秋の歌を追っていきたい。そこにも近代短歌の可能性や、限界が見えてくる気もする。
ということで、今回は「雲母集」と「雀の卵」を読む。
 
〇参加者の5首選から
 
「雲母集」から
 
大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも
 
深々と人間の笑ふ声すなり谷一面の白百合の花
 
薔薇の木に薔薇の花咲きあなかしこ何の不思議もないのだけれど
 
うしろより西日の射せばあな寂し金色に光る漁師のあたま
 
寂しさに海を除けばあはれあはれ章魚逃げてゆく真昼の光
 
闇の世に猫のうぶごえ聴くものは金環ほそきついたちの月
 
油壷しんとろりとして深ししんととろりと底からひかり
 
いつしかに金柑の木と身をなして吹く秋風に驚くわれは
 
生きの身の吾が身いとしくもぎたての青豌豆の飯たかせけり
 
わが父を深く怨むと鰻籠蹴りころばしてゐたりけりわれ
 
明かるけれどあまり真白きかきつばたひと束にすれば何か暗かり
 
しんしんと湧き上がる地から新しきキャベツ内から弾き飛ばすも
 
「雀の卵」
 
この山はたださうさうと音すなり松に松の風椎には椎の風
 
薄野に白くかぼそく立つ煙あはれなれども消すよしもなし
 
枇杷の葉の葉縁にむすぶ雨の玉の一つ一つ揺れて一つ一つ光る
 
麗らかに頭まろめて鳥のこゑきいてゐる。といふ心になりにけるかも
 
短か日の光つめたき笹の葉に雨さゐさゐと降りいでにけり
 
村時雨羽をひろげて寒竹の枝から飛ばんとし飛ぶ雀かも
 
父の背に石鹸つけつつ母のこと吾が訊いてゐる月夜こほろぎ
 
昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗竹の藪を出でて消えたり
 
すれすれに夕紫陽花に来て触る黒き揚羽蝶の髭大いなる
 
〇感想
 作者が「雀の卵」序文で書いているように、「雲母集」は朗らかで弾けるような勢いがある。それは現実からはみ出すような破壊的な詩情であったり、根源的な実存の寂しさを覗き見るような表現であったりして、この歌集に現代でも読ませる力を与えている。この時期は萩原朔太郎室生犀星など傑出した若い詩人たちと盛んに交流した時期でもあった。また、俊子と離別し、喪失感に引き裂かれた時期でもある。そういう孤独感が根源的なものを発見し、直観的な表現を差し出したのかもしれない。しかし、白秋は「雲母集」を言葉がうわついているとして、否定する。芭蕉を憧憬し「わび」「さび」の境地を希求する。それは精神的には東洋的な境地にはいることでもあり、方法的にはいきいきと写生することでもあろう。そこに白秋は安息を得ることになる。白秋の写生はこまかい描写にはゆかず、あわく憧れがさしこんであくまでも明るい。このあたりから、白秋独自の、気品のある韻律が生まれてきているようにも思う。
 
〇資料
近代短歌を読む会  第十六回  北原白秋  『雲母集』『雀の卵』
2018・5・13
                    レポーター    岩尾淳子
 
北原白秋  年譜  1911年~1924年
 
911  明治44年  26歳
『思ひ出』刊行    雑誌「朱楽」を主宰し、創刊。
志賀直哉谷崎潤一郎萩原朔太郎、室生齊瀬、大手拓次らがここから登場
 
1912 大正元年  27歳
母・妹いゑ 弟鉄雄、四人で浅草に同居
   三木露風と出会い、詩作を競った
   弟義男が上京
   7月、俊子の夫から姦通罪で告訴、二週間後に保釈
   父上京、郷里柳川を捨てることになった。
 
1913 大正2年  28歳
   自殺を思い詰め海路、三浦三崎にわたる
   『桐の花』刊行    俊子と再会
   俊子と同居、一家をあげて三崎町の異人館に移住  父と弟鉄雄は魚介類仲買業
   『東京情景詩』刊行  木下杢太郎口絵
    父と鉄雄事業に失敗、麻生に転居、俊子と白秋のみ三崎にのこる
   「巡礼詩社」を創設
    茂吉、憲吉、千樫らと出会う。『赤光』に感動する
 
1914年 大正3年 29歳
   俊子の病気療養のため小笠原の父島へ渡る    俊子先に帰京
   俊子と離婚、離別後は家族と同居
   『真珠抄』を刊行   萩原朔太郎と出会う   『白金之独楽』を刊行
 
1915 大正4年  30歳
   萩原朔太郎を前橋に訪問、1週間滞在
   弟鉄雄と阿蘭陀書房創立
   文芸雑誌「ARS」を創刊  『わすれなぐさ』を刊行   『雲母集』刊行
 
1916年 大正5年  31歳
江口章子と結婚  葛飾に転居
詩文集『白秋小品』刊行
葛飾時代は、非常に窮乏していた時期、雀に米を与え、哀感を共にする日々。
 
1917年  大正6年  32歳
   萩原朔太郎『月に吠える』の序文を書く 弟鉄雄 出版社アルスを創立
妹いゑ 画家の山本鼎と結婚   室生犀星『愛の詩集』のために序文
東京日日新聞」歌壇の選者となる
 
1918年 大正7年   33歳
  第2次「ザンボア」創刊
妻の病気療養のため小田原へ移る
「ザンボア」への「別れの言葉」を書き、今後は短歌ではない分野で創作活動をする、       
と記す。
鈴木三重吉「赤い鳥」創刊。精力的に童謡活動を展開する
浄土宗田肇寺に寄寓    詩文「雀の生活」を「大観」に発表
 
1919年 大正8年 34歳
初めての小説「葛飾文章」発表   ようやく窮乏生活から脱し、生活が安定する
相模札所の巡礼の旅をする
「赤い鳥」で白秋選の「自作童謡」(のちの児童自由詩)の掲載はじまる
大田水穂と伊那に遊ぶ
伝肇寺東側に家を建て始める  
「みみずくの家」完成 落成記念の詩話会を盛大に行う
最初の歌謡集『白秋小唄集』
最初の童謡集『とんぼの目玉』
 
1920年 大正9年 35歳
マザーグース」を訳し「赤い鳥」に掲載
洋館を立てることになり、地鎮祭をする。
このときの宴会で章子が弟鉄雄や山本鼎と対立、家出。そののち離別。
 
1921年 大正10年  36歳
佐藤菊子を結婚  はじめて安定した家庭生活にはいる
再び歌作をはじめる
俳句をつくる
童話集『兎の電報』  詩文集『童心』  詩文集「洗心雑話」
8月軽井沢で「児童自由詩」について講話
第三歌集『雀の卵』をアルスより刊行
再び詩作 「落葉松」などの詩を「明星」に発表
 
1922年 大正11年 37歳
白秋の選で『斎藤茂吉選集』、茂吉選で『北原白秋選集』
長男隆太郎誕生
「詩と音楽」山田耕作らと創刊
 
1923年  大正12年  38歳
   前田夕暮らと御嶽登山
   「アララギ」島木赤彦と論争
   萩原家訪問
   詩集『水墨集』  童謡集『花咲爺さん』
   9月 関東大震災  山荘半壊   アルスも焼失
 
1924年  大正13年  39歳
   国柱会   弟鉄雄  美術関係の出版社を創立
   短歌雑誌「日光」創刊
1925年  大正14年  40歳
   長女篁子誕生
横浜から樺太、北海道の旅に出る。
北原白秋の文章から
 
〇『雀の卵』「大序」より
 
つくづく慕はしいのは芭蕉である。光悦である。大雅堂である。利休、遠州である。また武芸神宮本玄心である。私はどうかしてあそこまで行きたい。風流が風流に終わらず、真に自然に還って一木一草の有心であるがままにおのれをそのなかに置く。そうした自然に任せた、あなたまかせの境地こそ真の芸術ではなかろうか。
東洋芸術の神髄はこうした自然の真実相に端的に直入する。細微の写生を避けて直接にその本質そのものを把握する。… 短歌俳句の類は、その自然観照において、かくの如き省庁的筆法を必要とする。ここまでいかなければならない。
 
雀ならば雀の羽ばたきのリズムがそのままに言葉となり、躍動する雀の諸相がそのままの形に言葉をもって表現されねばならないのである。そこまでいかなければ象徴詩とは言えない。… だから「吹かれ吹かれて雀が一羽」と「一羽雀が吹かれつつをり」とは格段の相違となる。
 
恥をいうと、私は「雲母集」で失敗をした。「桐の花」で完成したものを、思い切って破壊してかかろうとした。…活気、活力のみで何もかも無理押しすぎていた。で我見がのさばり、自然相が極端まで強調され、言葉が事実以上に飛躍しすぎたのであった。これに詩として表現すべきものを強いて歌にした貯め一首一首に独立性を欠いた連作のももが出来上がった。
 
実際に観ていながら、ついその傍らまで行っていながら、その真生命にピタと手を触れることができないで、ふと、傍らに逸れてゆく。そうしても主体と客体とのあいだに一分の隙があった。この隙を乗り越えるまでの、つまりこの数年間の苦しみであった。
 
さらにうれしいのは、渋く寂しくなりまさる私の観想のなかに、再び忘れられていたあの「桐の花」の明るさが目立って還ってきたようなけはいがする。それも明るいながら、明るさとは違った渋さを見せて再び訪れてきた。
 
 
〇推敲例
冬の日の光つめたき笹の葉に雨蕭々とふりいでにけり (原作)
短か日の光つめたき笹の葉に雨さゐさゐとふりいでにけり(改作)
安心して子供が遊んでゐる玉蜀黍はそばに真紅な毛を垂れている(原作)
そよかぜに子供が遊んでゐる玉蜀黍はそばに真紅な毛を揺りている(改作)
陽に向きて宙に羽ばたく稲穂雀飛びは上がらね輝きしきり落つ(原作)
風に見えてしきり羽ばたく稲穂雀遠き穂づらに散りまぎれつつ(改作)
 
 
 
 
 
 
 
同時代の動向から
大正
4年(1915)  
『潮音』創刊
    『アララギ』の編集が茂吉から赤彦にかわる 吉野作造大正デモクラシー提唱
5年  『煙草の花』白秋創刊
6年  『アララギ』の歌壇制覇
         他結社との論戦、歌集批判  ソビエト連邦成る
    茂吉、長崎へ
7年  茂吉、迢空批判  米騒動
8年  流行性感冒  世界大戦講話
9年  短歌連作論  幸田露伴芭蕉俳諧研究」 不況
 
10年 茂吉渡欧  石原純原阿佐緒  白蓮と龍介 『種撒く人』
11年 萩原朔太郎『短歌雑誌』5月号「現歌壇への公開状」
      文芸運動と労農運動
12年 萩原朔太郎『青猫』
13年 関東大震災  新感覚派文学運動
『文芸戦線』『解放』プロレタリア文学運動
14年 治安維持法  茂吉帰国
15年 雑誌改造「短歌は滅亡せざるか」 島木赤彦没
大田水穂、正風芭蕉俳諧を受けた日本象徴主義
 
〇赤彦との論争
 
島木赤彦  『アララギ』大正十二年2月号
 
北原白秋氏は今まで時々いい歌を見せた。単純で派手で光沢の多いことがその特徴であろう。詩の芭蕉良寛に私淑していることは久しいのであって、近頃は雑誌「詩と音楽」の上で、自作を芭蕉と対比させている。
日の盛り細くするどき萱の秀に蜻蛉とまらむとして翅ひるがへす   白秋
蜻蛉やとりつきかねし草の上                   芭蕉
なに削る冬の夜寒ぞ鉋の音隣り合わせにまた削るなり        白秋
秋深き隣は何をする人ぞ                     芭蕉
こんな具合に組み合わせてあって、前の組み合わせは白秋勝、後の組み合わせは芭蕉勝というような自判をしているのである。小生が見ると、白秋勝とある前者の組み合わせも、詩の言うところの「万有流通のいのちそのもののあはれさ」は、単純簡潔なる芭蕉の俳句の方にむしろ表れていると感ずるのであるが、同氏がそう感じないのは鑑賞相違するところででしかたがないとしていい。只、後の組み合わせにいたっては組み合わせそのものの非倫なるに驚かざるをえない。これを単に自分の負けとして「一本参った」などいうている心持が解せないのである。
 
島木赤彦『アララギ』3月号
 
命二つ対へば寂し沙羅の花ほつたりと石に落ちて音あり
芭蕉
命二つの中に活きたる桜かな
に依ったものである。…  いずれにせよ、芭蕉作中の一二句を撮って、自己の歌を生すといふやうなことは、芭蕉喝仰の奥所に入る者の容易にすることではないのである。
 
北原白秋『詩と音楽』4月号
 
私は芭蕉を尊敬しているにはちがいない。しかし盲信はしない。芭蕉の句にもずいぶんくだらないのもある。あの蜻蛉の句のごときは観念がですぎているので感心しない。比較されたので、自ら信ずるところを言ったにしても不倫であるのか、冒涜であるかは一概には言えないであろう。…ついでながら私の芭蕉尊敬は貴君等が万葉を宗として、子規、佐千夫を喝仰するそれとは態度が少々違う。…  今日のアララギには私も親しみがないのである。また誰が見ても、茂吉君遠く遊び、憲吉、迢空君さしてあまり親しまず、人柄として真に佐千夫の後継者たるべき千樫君も歌を載せず、ほとんど赤彦君の独断場となったアララギは歌風においても衰微し、停滞し、固着しつつあるとしか思われないのである。
 
大正12年7月号 『短歌雑誌』 橋田東声
 
赤彦氏の言にはどうも棘がある。身吉は乱暴なことをいってもどこかに愛嬌がある。人を憤らせない。根に持たずにすむようだ。これは茂吉の徳であって赤彦には之がない。…アララギに対する世の非難は、難ずる者にも欠点があるが、根本はアララギの人々のやや尊大的態度そのものである。アララギの人達はもっと謙遜な心にある方がよいと思う。
僕は元来赤彦という人物は感情の上から嫌いであったが白秋君との論争を読んでからさらに嫌いになった。
 
斎藤茂吉の発言
 
斎藤茂吉 『短歌雑誌』「白秋君のこと」大正八年六月号
 
北原白秋君は実に不思議な人である。黒い鴉に帽子を作ってやって喜んでいるところなどは。それから酔っ払って大道に寝転んだり、門人を集めて高座に上ってひどく威張ってみたり、そうかとおもうと雑誌がに三冊目に改題したり、門人と喧嘩して結社を解散してり、歌壇を去るなどと宣言したりするところは…、白秋はわがままな一童子にも等しかろう。
その童子があれほど自然を理解し、味わい表現しうるのは如何のわけか。あれほど「こおtば」のニュアンスを理解し嚙みこなし、おのが物として果たすのは如何のわけか。これを拉ぎと思ってそのゆえよしの分析を成就したと思うのは、やや呑気に過ぎるように僕は思う。
…、ただ日本人が富士を自慢して、白秋君を自慢していいと思う。富士はうぶで、秀麗で処女の乳房で…、白秋君の芸術はいかにしても富士の秀麗である。
びろうどの洋服を着こみ、赤いねくたいを首にぶらさげ、そそて歌集『桐の花』を完成した。『桐の花』は日本が自慢していいと思う。「雲母集」で飛躍したが。「雲母集」にはくずがある。びろうどの洋服でも、西行芭蕉に交流して、心ゆくばかりの歌をこのごろつくっている。日本は実に不思議な人を生んだものである。
白秋ものには「たね」がある。それは古への「本歌取り」に通うのであって、詩でもうたでもそれが多い。嘘だと思ったら浄瑠璃の前に立たせればよい。それが敏で露骨であるけれども、腹のなかでこなして、血になってめぐっているのだから、無彩限に白秋調を発揮するのであろう。
 
斎藤茂吉 未発表 昭和十一年  「北原白秋君」
 
多磨の九月号に、北原白秋君飛行機に乗るところの写真が載っているということを友人が教えてくれたので多磨を出してみるとなるほど載っている。前よりも少し老けたが、眼鏡などをかけて、なつかしい明朗な顔をして写真に写っていた。
それは信貴山でひらかれた、全日本多磨大会に出席するために飛行機に乗ろうとしたところであった。それからその大会で白秋君は「我が子らは愛しかるかもつらつらに並びいずまひいふこと直し」という歌を作った。この歌の中の、「我が子らは」といふのは、白秋門人あるいは多磨の会員という意味で万葉集巻一の憶良の用例を踏まえたものであろう。
ところがついでに多磨を見てゆくと、白秋君の手記に鳴る、「多磨手記」というのがあって、次のようなことが書いてあった。
 
かのアララギびとは、創刊前からあさましい石くれを飛ばした同一人であるが、風声鶴涙にも帯びえるということは驕を極め過ぎた平家の昔にはあった。自重なさるがよかろうと思うのである。ともかく、多磨は多磨として新興の生きに燃え切っている。いかにこの多磨に反感をもとうとも悪口のための悪口は見よいものではない。また、いかにも無関心を装うとも、それだけ感心したということにもなる。多磨はそうした未練物にかまわず、進むべく進むのである。
 
これでみると。アララギが多磨の発刊を蔑視して邪魔でもしたように取れるが、白秋君はよく気を落ち着けて自分の足元を見るがいい。そして、「アララギびと」などどいっているが、私も「アララギびと」の一人だということは白秋君がいくら万年童心でも知らぬはずはあるまい。また、論戦しようとするなら論戦らしい態度を極めるべきである。陰でいう嫌味たらたらはあまり女性的でこのましくないのである。
 
なお白秋君は次の如くにもいっている。
「歌壇人の偏狭と小心とについては、私は二三十年も前から知りつくしている。私のような自由な司会に立つものには、ここの空気はさして清爽ではない」
これも、ただの嫌味であるように響いてならない。白秋君はただ褒められていたいのだとしか感ぜられない。
 
 
折口信夫 昭和2年1月「近代風景」『歌の円熟する時 続編』
 
アララギ』に対して次第に、色調のわかれを際立たせてきた、白秋兄は、朗らかに寂寥な歌壇を見出した。わが古代人の感情至上生活にいよいよ近づいて倭建や大泊瀬天皇の美的生活を復興してくれるのかと、心ひそかに待ち焦がれたけれども白秋さんの孤独は、その感謝の一年のために力を弱められていった。孤独観の近代味は、古代人にはない、感謝精神であった。彼らの生活には、感謝すべき神がなかった。孤独に徹しても光明の地にでたことはない。東洋精神の基礎となったと信ぜられる仏教の概念が、修道生活によって、内化せられて、孤独と感謝、寂寥と光明、悲痛と大歓喜とを一続きの心境とした。芭蕉は、この昔から具体化の待たれた新論理のきわめて遅れて出た完成であった。だが、実は祖先以来暗示となっていた生命律の、真に具体化されたものではなかった。
(略)
白秋兄は、孤独・寂寥・悲痛に徹する新しい生活を開きそうに見えた。だが、その朗らかな無拘泥な素質が、急に感謝の心境を導いた。苦患の後、静かな我としてここに在る。
これが開放のための力杖であった。浄土に達するための煉獄であった。こう考えることが他力の存在を感ぜしめないではおかなかった。梁塵秘抄の賛歌や、芭蕉の作品は白秋さんの開発するはずの論理を逸れさせた。そうして、悔しくも東洋精神の類型に異訳させてしまった。ただ、前型のない点は、その極まりのない朗らかさである。