眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌と読む会報告第2回『一握の砂』

第二回  石川啄木  『一握の砂』
 
 
抄出された歌から
 
  1. 誰が見ても
    われをなつかしくなるごとき
    長き手紙を書きたき夕
     
  2. いと暗き
    穴に心を吸はれゆくごとく思ひて
    つかれて眠る
     
  3. まれにある
    この平なる心には
    時計の鳴るもおもしろく聴く
     
  4. するどくも
    夏の来るを感じつつ
    雨後の小庭の土の香を嗅ぐ
     
  5. 人間のつかはぬ言葉
    ひょっとして
    われのみ知れるごとく思ふ日
 
  1. やはらかに柳あおめる
    北上の岸辺目に見ゆ
    泣けとごとくに
     
  2. 砂山の砂に腹ばひ
    初戀の
    いたみを遠くおもひ出づる日
 
  1. けものめく顔あり悔いをあけたてす
    とのみ見てゐぬ
人の語るを
  1.  こそこその話がやがて高くなり
     ピストル鳴りて
     人生終わる
 
 
 出席者の発言から
 
1 ゆたかな叙情性がある。それは「われをなつかしくなるごとき」といった実感のある修辞に支えられている。また人物をうまく使って場面の立て方がうまい。
 
2 きれい事ではなく、わざとらしくない情感がひろく共感を呼ぶ。歌を読めばだれでもが経験したことがあるという気持ちにさせられるような心理をうまく切り取っている。
望郷歌も含めて、啄木には時代の代弁者としての役割意識があったのではないか。
同時代の都市生活者の哀感を詠んだ歌がとくに優れている。啄木の歌をとおして、個の孤独が確立していく様相をまざまざとみることができる。
 
3 「まれにある/この平なる心には」といったフレーズには「希有な私」という意識がうかがわれ、「私」を愛する思いはかなりストレートに出ている。こうした自己への視線や、ある種ポーズを決める啄木独特の態度には、当時流行していたワーグナーの影響があるのではないか。
 
4 啄木の歌は平たく、含みが少ないという点で俳句的である。ただ、短歌のなかに雅でない世界を持ち込んだことで短歌の近代化を実質的に推し進めている。
また、不思議な感覚をもっており、普通の人が詠んでもこんなふうに鋭くは歌えない。
言葉や単語が自由自在であり、そうのように言葉を使うことが自我の解放の形でもあったろう。新しい市民文学の成立である。
 
5 明治30年代後半から40年代に掛けては、めざましくジャーナリズムが発展した時期であり、その流れのなかで表現の自由化を獲得できたのではないか。
 
6 啄木の切り開いた文体には新しい口語のリズムがあった。口語を文体のなかに取り込むことで、韻律の束縛から解放されている。
 
7 三行分かち書きも韻律の呪縛からのがれる方法だとしていい。ただその後継者はいなかった。啄木はそういう意味でも早く死にすぎた。孤独な成功と呼ばれる理由だろう。
 
8 大逆事件と正面から取り組んだ啄木の功績は大きい。非常に厳しい時代   であったことを認識して読まねばならない。


◎ 啄木の歌は、一見平易に見えるが、啄木独自の鋭い感覚によって取捨選択された屹立する歌である。
時代の潮流とは離れたところで、孤独に自己と向き合いあたらしい言葉、風景、風俗、人間関係、社会の構造を発見している。啄木の描き出した自意識によってはじめて、日本の近代と対峙するだけの緊張ある精神が確立したのではないか。
 ただ、啄木は夭折したのでそこからの流れは立ち消えしまった。文体がさらに深まり、熟す過程が見られなかったことが惜しまれる。
  
 
 
【参考文献】 抜粋します
 
 
【3】歌論・評論   (すべて新かなに変えています)
資料1
「ローマ字日記」より   明治42年
4月11日
例のごとく題を出して歌をつくる。みんなで十三人だ。選の終わったのは九時頃だったろう。
この頃真面目に歌など作る気になれないから、相変わらずへなぶってやった。 
4月17日
泣きたい!泣きたい!「断然文学をやめよう」と一人で言ってみた。「止めて、どうする?何をする?」「Death」と答えるほかないのだ。
 
弓町より 「食らうべき詩」 明治42年11月~12月 東京毎日新聞
 
謂う心は、両足を地面にくっつけていて歌う詩ということである。実人生と何らかの間隔なき心持を持って歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の香の物のごとく、しかく我々に「必要」な詩ということである。こういうことは詩を既定のある地位から引下すことであるかもしれないが、私からいえば我々の生活にあってもなくても何の増減のなかった詩を、必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定するただ一つの途である。
とにもかくにも、明治四十年代以後の詩は、明治四十年代以後の言葉で書かれなくてはならぬということは、詩語としての適不適、表白の便不便の問題ではなくて、新しい詩の精神、すなわち、時代の精神の必要であった。私は最近数年間の自然主義の運動を、明治の日本人が四十年間の生活から編み出した最初の哲学であると思う。そうしてすべての方面に実行を伴っていたことを多とする。哲学の実行という以外に我々の生存には意義がない。詩がその時代の言語を採用したということも、その尊い実行の一部であったと私は見る。
資料2
「性急な思想」         明治43年2月  東京毎日新聞
 
最近、一部の日本人によって起こされたところの自然主義の運動なるものは、旧道徳、旧習慣のすべてに対して反抗を試みたと全く同じ理由に於いて、此の国家という既定の権力に対しても、其の懐疑の鉾先を向けねばならぬものであった。然し我々は、何を其の人たちから聞き得たであろう。其処にもまた、呪うべく憐れむべき性急な心が頭を擡げて、深く、強く、痛切なるべき考察を回避し、略、国家というものに就いて真面目に考えている人を笑うような傾向が或る種類の青年の間に風をなしているような事はないか。少なくとも、そういう実際の社会生活上の問題を云々しない事を以て、忠実なる文芸家、溌剌たる近代人の面目であるというようにみせている或いは見ている人はいないか。
資料3
「硝子窓」
 私はもう、益のない自己の解剖と批評にはつくづくと飽きてしまった。それだけ私は実際上の問題に頭を下げてしまった。知識或る人たちの歩いている道から一人離れてしまった。私はこれから「どうしたらおもしろく成るだろう」ということを真面目に考えてみたいと思う。
自分という一静物の、限りなき醜さを心ゆくばかり罵ってみるのはそのときだ。
資料4
「一利己主義者と友人との対話」    明治43年11月  『創作 五号』
人は歌の形は小さくて不便だというが、おれは小さいから却って便利だと思っている。そうじゃないか。人は誰でもその時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような、乃至は忘れずにいるにしても、それを言い出すには余り接ぎ穂がなくてとうとう一生言い出さずにしまうというような内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験している。多くの人はそれを軽蔑している。軽蔑しないまでもほとんど無関心にエスケープしている。しかしいのちを愛するものはそれを軽蔑することが出来ない。
そうさ。一生に二度とは帰ってこないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。ただ逃してやりたくない。それを現すには、形が小さくて手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌という詩形を持っているということは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。おれはいのちを愛するから歌を作る。
 
資料5
「歌のいろいろ」   明治43年12月   東京朝日新聞
これは歌らしくないとか、歌にならないとか、いう勝手な拘束をやめてしまって、何によらず歌いたいと思ったことは自由に歌えばよい。こうしてさえゆけば、忙しい生活の間にも心に浮かんでは消えてゆく刹那刹那の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌というものは滅びない。
略、そうして其の他の真に私に不便を感じさせ、苦痛を感じさせているいろいろの事に対しては、一指をも加えることができないではないか、否、それに忍従し、それに屈服して、いたましき二重の生活を続けてゆく外にこの世に生きる方法をもたないではないか。自分でも色々自分に弁解してはいるものの、私の生活は矢張り現在の家族制度、階級制度、知識売買制度の犠牲である。
目を移して、死んだもののように畳みの上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。
【4】周辺の評価
資料1
石川啄木君の歌」  若山牧水    大正3年1月  『創作』
啄木歌集一巻を貫いているものは消そうとして消しがたい火のような執着である。同時に絶望である。彼は寸毫も自己を忘るることのできない人であった。意識して、無意識のうちに、常に自己のみを見つめていた人である。しかも強い人ではなかった。たびたび自分を茶化そうと試みている。しかも、完全に茶化しえることも出来ず、知らず知らず、辛い自分の姿に立ち返っていることが多かった。そのときに出来た歌がみな空を渡る風のようなとらえどころのない良い歌となって遺稿のなかにのこっている。歌に限らず彼が持っていた現在は、みな悲しき玩具である。
われをわすれてため息をつくような、独り言でも言うような場合の作は実にいいものがあるのである。、いわばそういう自分のこころをじいっと眺めている冷たい傍観者の歌である。自己批評の歌である。
何となく私には彼の歌が二つの部類に分けて眺められる。一つは他念なくひたすらに自分をめぐみ慈しむ歌である。一つは、同じくそこからでて、持って行きようのない絶望を述べた歌である。
もう一つの彼の特徴として、揚げたいのは、彼がものに、眼をつけるいついての鋭敏さでる。平凡ななかから、唯だひとつ何かを捉えて生き生きとそれを一首にいかしている。描写や叙景においていかにも印象の鮮やかな一首が直ちに絵になり短編小説になるようなのがたくさんある。
 
北原白秋の回想
 
 非常に空腹を感じたので、今度は私が誘って米久に誘った。啄木は肉にも魚にもほとんど手を触れなかった。実に不思議な変わり方であった。(略)それから次々とテロリストの話が出た。私はそれにも驚かされた。
啄木くらい嘘をつく人もなかった。(略)そうした彼がその死ぬ二三年前より嘘をつかなくなった。真実になった。歌となった。おそろしいことである。(略)彼は一人の輝く道を彼の貧苦からはじめて見いだしたのである。
 
 
感想断片  松井白羊   『創作』明治44年4月
 
啄木氏は夢から覚めた人だ。もう永久に何物にも酔うことの出来ない悲しい運命に陥った人だ。
 
【5】明治43年の短歌
 
●新聞に発表した短歌
 
3月18日から8月16日まで東京朝日新聞に五首を24回連載
3月10日より8月31日まで東京毎日新聞に五首を15回連載
 
  1. 明日を思ふ心の勇み生涯の落着きを思ふさびしさに消ゆ    3月14日 毎
  2. 何時になり何歳にならば忘れえむ今日もおもひぬ故郷のこと  3月14日 毎
  3. 心よく人を賞めて見たくなりにけり利己の心に倦める淋しさ  3月19日 朝
  4. 非凡なる人の如くにふるまへる昨日の我を笑ふ悲しみ     3月19日 朝
  5. 大いなる彼の身体を憎しと思ふその前に行きて物を言ふ時   3月19日 朝
  6. 今日もまた捨てどころなき心をば捨てむと家を出でにけるかな 3月23日 朝
  7. 鏡屋の前にいたりて驚きぬ見すぼらしげに歩むものかも    3月25日 朝
  8. 父母の老いし如くに我も老いむ老は疎ましそれを思へば    3月26日 朝
  9. 宰相の馬車わが前を駆け去りぬ拾へる石を壕に投げ込む    3月27日 朝
  10. 心よく我に働く仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ     3月28日 朝
  11. 心地よげに欠伸してゐる人をみてつまらぬ思ひ止めにけるかな 3月28日 朝