近代短歌を読む会 第18回 北原白秋『白南風』
今回は北原白秋の『白南風』を読んだ。この歌集は『雀の卵』以来十三年ぶりの歌集であり、昭和9年に出版された。この間、未完の歌集をふくめて、詩集、童謡、随想など多数の創作を行っている。白秋の旺盛な創作意欲は昭和にはいっていよいよ高まり、相当な多作の時期になったようだ。
さてこの歌集には千三百首を越える歌が収録されており、白秋のこの歌集への意気込みが感じられる。この時期の白秋は、短歌の散文化や、現実主義的な方向に異論を唱えて独自の歌風を打ち立てることに奮戦をしている。
実際に歌を読んでみると、ベースは落ち着いた写生でありながら、言葉の運び方を整えて、韻律を美しくする工夫が随所にみられる。また、感情や主観の出し方もやわらかく、自意識が一歩うしろに下がった印象をうける。どの歌にもあかるい光が差し込んでいる印象があり、それでいて題材に迫ってゆく精緻な表現がなされている。
一首、一首たちどまって読んでいると、相当の推敲がなされているようにも感じる。品格を崩さないほどの文体の工夫もある。そしてひとつひとつ緩い力でやすりを使って磨き上げたような美しさだ。『邪宗門』の序文で書いていたように白秋にとって、短歌はやはり小さな宝石のようなものなのかもしれない。しかし、美しく響くことが、どうしても遠ざけてしまうものもある。内面の屈託のある精神性を消してしまう。ただ、そういう歌を求めているならば、白秋は十分に自分の短歌を成就し得たともいえる。
この歌集をもって、白秋の唱える「新幽玄体」は達成されたと言われる。新幽玄体はさまざまに言葉を尽くして白秋自身によって説明される。それがどんなに品格のある世界であろうと、やはりこの韻律の呪縛からはなかなか先には行けない気がする。
韻律の美と、思惟の深さとは両立できないものであろうか。これは、今も新しい課題ではないだろうか。
このあと、さらに、晩年に至って白秋はその困難に視力を失いつつ死命を懸けて挑戦してゆく。また、白秋の門弟たちは、それぞれに新しい挑戦をして、現代短歌への道を切り開く。その行く手をさらに追わなくてはならない。
◎ 参加者の五首選から
若葉どき雲形定規かきいだき学生は行く燃ゆるその眼 ( ま )眸 ( み )
何の木か秀 ( ほづ )枝 ( え )しづもる夜目にしてしろくはさらと落つるその花
天 ( すずめ )蛾 ( が )の翅あげてくるふゆべには夕顔の大き花もこそ咲け
吾が窓よ月に開けば刈りしほの穂麦の矢羽根風そよぐなり
母と子ら佇ちてながむる西の方 ( かた )月も二つの星を抱きぬ
臑立ててこほろぎあゆむ畳には砂糖のこなも灯 ( ひ )に光り沁む
うすうすと朝日さし来る椎の根に心寄せつつ冬はこもれり
夜の風息づきの閒 ( ま )や下り沈む蘭 ( らん )鋳 ( ちゅう )の尾鰭ひらきゆるがず
庭の木々にすさぶ夜風はさりながら咲きつつやあらむそのあるものは
このゆふべたとしへもなくしづかなり日は明らかに月を照らしぬ
わづかのみ明る木 ( こ )膚 ( はだ )のさるすべり夜は深うして笑ひけらしも
照る月の夜空にまよふあるかなき薄翅かげらふの尾は引きにけり
下 ( お )り尽くす一夜 ( ひとよ )の霜やこの暁 ( あけ )をほろんちょちょちょと澄む鳥の声
かんとうちて半鐘の音とめにけり日の消え方は夜も凍みるなむ