眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌を読む会第3回 若山牧水『死か芸術か』

第3回   若山牧水「死か芸術か」(大正元年刊)

 
〇参加者の3首選より
 
雪ぞ降るわれのいのちの瞑ぢし眼のかすかにひらき、痛み、雪降る
 
糸のごとくけむりのごとく衰へしわれの生命にふるへて、雪降る
 
旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に
 
海よ悲しあをき木の実を裂くごとく悔はわが身につねに新し
 
かんがへて飲みはじめたる一合の、二合の酒の夏のゆふぐれ
 
秋の入日、猿がわらへばわれ笑ふ、となりの知らぬ人もわらへる
 
膝に組む指にいのちをゆだねおきて眼をこそ瞑づれ秋の夜汽車に
 
身も世もなく児をかはゆがる親猿の真赤きつらに石投げつけむ
 
眼の見えぬ夜の蠅ひとつわがそばにつきゐて離れず、恐ろしくなりぬ
 
ゆらゆらと地震こそわたれ月の夜の沖辺に青く死にし岬に
 
わが渡る曇れる海にうすうすと青海月なしうつれる太陽
 
夏の樹にひかりのごとく鳥ぞなく呼吸あるものは死ねよとぞ啼く
 
  • 参加者からの意見
 
  1. 近代短歌の自己というのは、一点を定めてそこから対象をみるように成立している。しかし、牧水は森羅万象のなかにいる「私」の視点から対象をみている。そのあたりに他の近代短歌と一線を画す牧水の歌の特質がある
     
  2. 小説の自然主義と短歌の自然主義とはちがう。短歌の自然主義は自然崇拝である。エマーソンの哲学の影響があったと思われる。
     
  3. 『死か芸術家』『みなかみ』では、自由律の歌が多く、文体が揺れている時期にあたる。自分を自分で変えてゆこうとし、新しい生活をたちあげようともがいていた。そういう衝動が五九調の定型に収まらず、自由律を求めたのだろう。
     
  4. この時期の牧水の歌には、爆発しそうな鬱屈感と新しくなりたいという、自己否定と自己革新が歌のエネルギーとしてある。
 
5、比喩の豊かさ、漢字とひらがなのバランスがよい。
「の」の韻律の良さ、「よ」の呼びかけが多用されている。
6「われ」自分を突き放す感覚がある
7、「いのち」と「生命」と平仮名と漢字の使い分け異なるニュアンスを籠めている。
8、海に対するあこがれ(プラスマイナスの一体化のイメージ)のような美意識がある。
9、明治43年後半期は、自らが編集する『創作』誌上で、短歌滅亡論がにぎわっている時期であった。しかし、牧水に論争への関心は見られない。
牧水は生涯をとおして流行の思潮に関心をあまりみせない。
 
10、若い頃から万葉集を読んでいた影響も一つの原因としてあろうが、自然との一体感が感じられる。
後半生も、アララギと確執を保ちながらアララギの「自然のなかに自己一元化をみる」、ということに図らずも近接していったようだ。
 
11、明治45年4月には啄木の死と遭遇している。「死」がかなり現実味をおびて牧水の心理に影を落としたようだ。
 
12、「青く死にし岬に」という「死にし」という静止した状態をあらわしているのは、当時の国木田独歩の文章に「風が死ぬ」といった表現があり、その影響かと思われる。
 
 感想 
近代短歌の潮流のなかでは牧水の意識は独特である。「われ」は凝縮した自意識をさすのではなく、どちらかというと拡散してゆく意識として詠われる。それがやや冗漫な感じや、非近代的な印象をもたらすのだろう。ただ、「死か芸術か」の時期は、生活上の絶望感をかかえており、「死」とかなり接近した精神状態であった。しかし、ついにその絶望感をつきつめて自我と向き合うことはなかった。その曖昧さがこの歌集を読みにくいものにしている。しかしその楽天性も牧水の特質であろう。このあと、牧水は旅を重ねながら自然崇拝の方向を深めてゆく。43歳で亡くなるまでアララギとは趣の異なる静謐さでのびやかな歌の世界に入ってゆく。それにしても若い晩年である。
 
【関連資料】 すべて新かなに変えています。
 
  1. 「閑話」     明治四十年
 
「文庫」の近時の短歌歌壇中に於いて、無花果氏が「明星」の短歌に対しいささか敬を失したかの趣ありしによって、その翌月の「明星」で与謝野氏から手痛く叱られていた。その余沫が僕の上にも飛んで、「若山氏の歌の未だ歌をなさぬもの多き理由」云々という言葉が見えていた。これはいかにも道理の話で、僕自身は多き所ではなく、詠んだ歌が全部まだ一つとして完全な歌をなしていないと深く感じているのである。(略)しかし、かく苦しんでいても未だ決して絶望したことはない。滑稽でもいい。悲惨でもいい。兎に角僕には明日があるとこう深く信じて疑わない。「明星」などでああ叩かれるとさすがに先輩の言で一寸身にこたえぬではないが、さまでに痛みはせぬ。「明星」は「明星」、僕は僕、小さいなりにも僕には僕の色合いがある。「明星」などに同化する念もなく必要もない。
 
  1. 「所謂スバル派」の歌を評す   明治四十三年二月
私はかつて『佐保姫』を評して『佐保姫』には歌ばかり書いてある。晶子という人は出ていないと言ったことがある。(略)晶子という人間、唯一絶対の或一生命とはほとんど何等の関係が無い。極めて普遍的に遊離した、雲のような歌が多い。歌としては、それは如何にも美しいのがあり、おかしいのがある。けれども不幸にして我等はただ目先のみを刺激されて終わることが多い。(略)歌をば一種の方便として、その奥に作者の影が、否作者そのものがいっぱいに動いているのを以て満足とする。歌そのものを見るのは私の願いではない。歌を通してその作者の生命を見むことが私の希望の全てである。
 
上に挙げた諸氏と赴く所を異にして、最も真剣に歌を詠んでいる人に北原白秋氏がある。(略)氏に撮っては官能即宇宙の観がある。一切の帰依、解決?は一にその鋭い、デリケイトな感官によって求められ満足せられている。(略)氏の感覚には晶子氏に見るような伝習的ないう所の趣味なるものがない。感覚そのものが赤裸々に踊っている。(略)これらの氏の作に対してなお幾多の不満足を感ぜずにはいられない。第一、氏は余りに末梢の感覚に酔い過ぎはしないか。余りに感覚を強ゆるに過ぎはしないか。これらの諸点はついに我等をして同じく、一面の浮きたる歌、離れたる歌、作られたる歌のうらみを懐かしむるに傾いて行く。
 
  1. 木俣修『大正短歌史』より
 
これらの批評を通じて知られることは、『創作』がというよりも牧水が生活・人生に未着した歌、作り物でないありのままに歌う歌というものを正しい歌、新しい歌として標榜しようとしているということである。
本来、牧水は正面をきった歌論というものをあまり書いていない。
 
 
  1. 『牧水歌話』(明治四十五年三月刊)
 
 私の謂うところのこの一語(「気取るな」ということを指す)の裡には、歌らしい歌を詠むなという意味もある、ひとりよがりになるなという意味もある。眼を細め、首を傾け、肩までつぼめて、総てのものを見るようなことはするなという意味もある。更に、常に鮮明なる自己を保て、我が心を濁らし曇らすな、詠まむとするものの本体を掴め、中心を刺せ、凡そでものを視るな、ごまかすな、七分八分で安心するな、行くところまで行け、といふことを付け加えてく。不透明な、にやけた、よろよろした歌などは多く以上の点に注意せぬが故に生じてくるものである。
 
私の芸術の対象は全部『自己』そのものである。あらゆる外界の森羅万象も悉くその自己というものに帰着せしめて初めて其処に存在の意識を認める。そしてわたしは宇宙の間に産み落とされた『自己』の全部を知りたしかめむがためにのみ存在しているものというように思っている。畢竟、我が生存の意義は『自己』を知り、自己の全てを尽くすことによって初めて生じてくるものと信じている。
 
 
  1. 『創作』大正三年 十月号
 
我々の短歌が従来のものに比すと、遙かに生活というものに接近してきたのは疑いもない事実である。けれども、よく見ると実はそれもほんの表面上形骸上に限られていて、まごまごすれば昔の俳句や川柳の取り扱ったごく浅薄な材料および、態度の方向に落ちてゆかぬとも限らぬ状態になる。(略)我等は如何にかしてその悔しい境地から脱して、完全な透き間のない生活を営みたいものではないか。我等のこの片々たる雑誌刊行の事業をすらもまた充分にそのために便したいものだ。そうしているうちにまた自ずと真実の歌というものに痛いまでに接触していくことになるのである。
 
  1. 『創作』大正三年十一月号
 
一体方今の短歌の甚だ表面的で報告的で不徹底である一面の理由として私は例の自然主義の影響を心ひそかに数えていた。『あるがまま』という一のモットーを極く安易に鵜呑みにして、思索も内省もあったものか、自己は、社会はただ、あるがままのそれさ、というような浅薄な粗雑な独断的な考えを虚生虚世の上に置き、それが移って短歌の方にまで影を投げたと見て強ち差し支えはないと思う。(略)今の「そうですか歌」は過半これから来ている。ところが自然主義者中の偉人モウパッサンは果たして人生というものを如何に見ていたか、また考えていたか、(略)。
 
  1. 『批評と添削』(大正九年十二月刊)
極めて正直に、心そのままの姿を歌に現す。謂い得べくば、作者そのままの人間を歌に現す。
 
  1. 『短歌作法』(大正十一年十二月刊)
 
私は詠歌の上に自然ということを非常に重んずる。ここで『自然』というのは普通い山川草木の風景を指すのではなく、それら風景や我等人間その他一切をひっくるめた大自然界の諸現象のなかに通じて流動している一種の霊感いわば宇宙意志とか自然意志とかいうべきものなのだ。(中略)『自然』のこころを、光を、身に帯びて安らかに歌い挙ぐるという境地にまで進みたいのである。
 
  1. 斎藤茂吉 『「死か芸術か」漫評』
 
「死か芸術か」の作者は、頭をじっと突きつけて、飽くまで詠嘆せずにはすまない。奥ゆかしい深みのある歌を読むのはそのためである。しかし一面作歌時の心熱が高まれば、時にその従属現象として真実の感じにいろいろの枝葉が出来て、よくいえば如何にも詩人らしい、悪く言えば如何にもわざとらしい、気取った歌のできるのはその為である。『瞑ぢよとて悲しく眼なづるごと墓場の木々の葉の散りきたる』いかにも詩人の感じらしいが、どういうわけか僕には不思議な程幼稚に思えてならない。(略)
夏となり何一つせぬあけくれの我に規則のごとく歯の痛む
初夏の曇りの底に桜咲き居り衰へはてて君死ににけり
越え来れば岬かなしく極まりて海となり又遠く遠く岬見ゆ
(略)
こういう歌に僕らはいつまでも親しみたいのである。(略)
  膝に組む指に生命を委ねおきて眼をこそとづれ秋の夜汽車に
というような幼稚なのさえある。感じを現すのに動詞や助動詞などに苦心して悩みに悩んでいる現在の僕らから見れば、苦もなくすらすらと行っているのが羨ましくもあるが、又甚だつまらないとおもう表現もなかなか多いのに気づくのである。
「死か芸術か」一巻には作者の言の如く、痛ましき心の動揺と悔恨のひびきの流れているのは僕も同感であるが、それでいて何処かに甘たるい浮いた所のある様に思われるのは表し方が朗々とし過ぎているからでる。
 
  1. アララギ「死か芸術か」漫評
 
  わが薄き呼吸も負債におもはれて朝は悲しやダーリヤの花
 
茂吉曰。この歌を読んで、なるほどそういうものかなあと思う。しかしこういう感じ方を理解出来ないほど、僕の現在の心は平凡である。実際この歌は優秀な作品であるかも知れぬ。それは実際分からない。ただ、僕の過去において、こういう感じと類似の感じをして、其れをひとりで嬉しくも尊いと思っていた。ところがこういう感じを『詩人のごまかし』という程になった。これは僕がもう三十才を過ぎて若々しい心のゆらぎが無くなったためであるかもしれぬ。この問題の如きは比較的重大な問題であるとも思えるが、よく先輩に聞いた上でなければ何とも言えない。
 
 とほり雨朝のダリアの園に降り青蛙などなきいでにけり
 
茂吉曰。僕はやっぱりこういう歌が誠に好きだ。死とか人生とかを露骨に歌われると、おかしい程薄ぺらにひびいてならないが、こんな歌になると涙の湧くことがある。
 
 
詩「死か芸術か」『早稲田文学』(明治四十五年三月号)
 
  〇
 
われは
わが藝術の極まり行くところを
わが死に在りと信ず。
 
わが生は
わが藝術に尽き、
わが藝術は、
わが死に尽く。
 
われ、つねに歌をうたへり。
これ一個の生命が
死へ急げる途上の
 一歩、一歩
かなしき努力なり。
 
  〇
 
空想を止めよ
火の如き瞑目を破れ。
 
庭に出でよ、
五月の日は青く煙り、
樅の影に蟻入れり。