眠らない島

短歌とあそぶ

加藤治郎第11歌集『混乱のひかり』

栞紐はねのけて読む冬の朝 歌はひかりとおもうときあり   

 加藤治郎の第11歌集『混乱のひかり』はタイトル通り、ひかりに充ちている。冒頭に引いた歌には作者の歌に託する希望がひかりを生んでいる。混沌とした現代社会の現状に言葉で切り込むように挑みつつ、そしてその言葉によって傷めつけられながらそれでも前を向いている。言葉はどこまで現実にとどくのか、さらに美の高みにいけるのか。あるいはそれは虚無にすぎないのか。はたして、言葉は、はかなさから人を救うことができるのか。言葉の虚空にはばたくことの可能性と不可能性の境界に歌が生まれている。歌集では多様な世界の事件にコミットしてゆく。たとえば2015年、イラクで起きた邦人殺害事件。

アイリスの花瓶に水のあふれゆくうすやみにふれている首すじ  

蒼穹の処刑の邦人語らずに忘れることも語り尽くし消え去ることも  

撮影の男は何か注文をつけただろうか、光る砂粒       

 1首目、日常の時間にさしこんでくる不穏さを花瓶から溢れる水に暗喩し、うすやみにふれる首すじに身体化する。2首目、3首目はまさに殺害される瞬間に言葉で分けいってゆく。2首目は、殺害される当事者の測りがたい内面を思う方の無力感が伝わる、3首目の想像力の動きは生々しくて臨場感があふれ思わず立ち止まる。言葉が重みをもって現実の内側にはいりこんでいる。

握手をしよう花の手は握手をしよう砂の手はすこし痛いが   

死は予告されていながそこにあるザザザザダダダ空爆の日だ

ころがっているのは何か(見るべきだ)ブリキの兵士三角あたま  

 連作後半では、ISへの空爆を詠む歌がつづく。混迷する状況を実況的に詠む。1首目、取引と裏切りと殺戮の連続をアイロニーを込めた握手という比喩に託す、2首目、3首目、空爆、あるいは地上戦の無惨を特別な修辞をつかわずにどちらかというと無機的な口調で詠う。やや饒舌で滑っている印象がある。事態の悲惨さよりもむしろ作者側の得体のしれない高揚感のようなものに触れている気がする。言葉が加速しすぎると祝祭感のようなものが生成されてしまうのかもしれない。言葉のきりぎしだ。それを踏み越えながら粘り強く外界にコミットしてゆく。こうした外界への想像力が自身に向けられたとき歌の表情は一変する。

いつかきっとなにもかなしくなくなって朝の食パン折り曲げている   

 こうした絶望的なつぶやきこそが、圧倒的な世界の暴力と対峙したときの反応として本当だろう。ここに作者のそしてわれわれの現在が語られている。こうした言葉とであったとき、初めて私たちは自身の悲しみに気づくことになる。

心と言葉は同じはやさで朽ちてゆく原っぱの工具箱のベンチ      

洪水は言葉のなかに洪水はわたしの口の中に始まる     

あさの光の切れはしが床にある燃え尽きたのは俺の言葉だ     

 さきほど挙げたように多様な事象を、意匠を凝らした手法で詠いつつ、その言葉に冷静に懐疑している作者がいる。1首目、どのように存在しようと心は滅びるし、言葉も有限だ。2首目、3首目、世界は混沌としているが、一方で自身の言葉は洪水のように混乱を引き起こしている。では、もう一歩退いてこの作者の言葉はどこから生まれるのだろうか。

幾本も錆びた線路が横たわる俺の居場所はおれの体だ    

どこにでもわたくしはいる原っぱにビニールシートを広げていれば    

 1首目、現実的には錆びた肉体を居場所として生きるしかないが、内面的には2首目のような全能感に満ちた世界がこの作者の自意識を支えているようだ。どんなに混乱しているように見えても作者はいつもひかりに包まれている。

さくらんぼこばむものなどなにもないひかりにふれるときのやさしさ  

きっと光の裏側はもっとまばゆい或る夏の日にわたしは歌う   

りんかくはひかりとおもう食卓の皿に盛られて朝のレタスは  

日が差して貸しコンテナのかたかたと猫があそんでいるのかい   

 冒頭に挙げた歌はじめ、歌集にはひかりを詠んだ歌がたくさんある。どの歌も至福感に満ちていて蜜のように甘くて美しい。こうした歌を読んでいると、まさに「歌をひかり」と思えてしまう。これらの歌は生来のこの作者の向日性を現していよう。それは身近な他者へのほがらかな視線となって結実してくる。性愛の歌はどれもよろこびに溢れ清潔で陰りがない。また、この歌集に登場してくる家族への視線もあたたかだ。

たけのこほろほろ苦い就活のバックを春の街路に運べ   

でかいバッグにモバイルPCぶちこんで不機嫌だなあ子は出て行けり   

母がいてほかにはだれもいないから実家というのは果樹園なんだな  

 1首目は就活をする娘をあたたかく見送っている。2首目は屈託を抱えた息子の姿をおおらかな口ぶりで詠む。3首目は、独り暮らしの母を詠むがその詠みぶりは天上的に明るい。実家はいつでも帰っていける幸福な幼年時代を象徴している。この果樹園こそ作者の言葉の果樹園だろう。こうしたあたたかで深い家族の歌をもっと読みたい。
あとがきでライト・ヴァースについて言及している。その第一の定義に「私の苦を負わない歌」を挙げている。まさに加藤治郎の歌はしめっぽさを払拭したライト・ヴァースにちがいない。