眠らない島

短歌とあそぶ

山本夏子 第一歌集 『空を鳴らして』

 
前をゆく豆腐屋さんの荷台からこぼれて落ちる滴のひかり   
 
歌を詠むとき、私たちはどのようにして言葉を始めるているのだろう。歌のはじまるとき、どんな構えをしているのか。山本夏子『空を鳴らして』を読み終わって、これでよかったのかと不安な気持ちになった。思わず、自分を振り返るほど、この作者は無防備に詠んでいる。新鮮な態度。そこには、現実の自分をそれ以上に複雑に表現しようとか、無理に尖った感覚を表現しようとか、リアルさを出すために、文体や題材を不自然に操作するとかいった、自意識の主張がほとんど感じられない。読まれている歌の題材は作者自身によって選択されているわけだが、そこにはことさらな方法意識のようなものがない。つまり、世界に対しても、自分に対しても、とても公平な感じがする。それは単純ないい方をすれば、澄んだこころで世界が見えているということか。
巻頭に挙げた歌は、そんな目にこそ発見された、神聖で美しい世界の一瞬をとらえた一枚の絵のようにも思える。
 
ふっくらと羽を重ねてまるくなるキャベツのような春の水鳥  
またひとつ長屋が取り壊された跡 裏に小さな鳥居が残る   
パンならばいい焼け具合はつなつのひかりを浴びて眠る柴犬
太陽を一枚一枚焼き上げるお好み焼き屋のおばちゃんは今日も 
 
一首目、歌集の巻頭歌。春ひかりに包まれた水鳥のやわらかな姿が「キャベツのような」という無理のない比喩で丁寧に描かれている。二首目、都市の中心部ではすごい速さで、高層マンション化が進んでいる。変わっていく風景のなかに残された「小さな鳥居」はその土地の魂そのもの。3首目、この歌に思わず笑ってしまった。柴犬は暖かさそうな茶色だったのか。柔軟で自由な発想が光る。4首目、「おこのみ屋のおばちゃん」の描写がなんとも威勢がいい。生命感にあふれた町の生活が見えてくる。
 
こうして歌集を読み進めると、作為的に世界を構成するのではなくて、いつも対象に等身大の表現を与えている。これは簡単にできそうで、実はなかなか難しいのではないか。歌を構成する過程で、必要以上におおげさな叙情や、複雑な意味の負荷を掛けない。現実の小動物や人、そして、さまざまな物の存在の姿はいつも慎ましい。自ら主張することはない。その静かな佇まいを壊さないように言葉にしてそっと掬いだしている。使われている比喩は無理なくイメージを膨らませているし、文体はあくまでも丁寧でなめらかだ。
 
文学とはもっと複雑で捻じれた表現でなければならない、といった先入観をもたされてしまったものには、山本夏子の歌はあまりに明るく素直すぎるかもしれない。しかし、この歌集をよみながら、次第に楽しくなってしまうのはなぜだろう。そこには、普通の人々の暮らしが立体感をもって形象化されている。作者の視線は、閉ざされた自意識から離れて、ごく自然に他者の生をいきいきと発見している。
 
上履きが片方道に落ちている木星みたいに裏側見せて   
ユニクロで値札をちぎってしまった子連れてレジへと謝りに行く 
火葬車が来るまで冷やしておくからだ冷蔵庫のなか空っぽにして  
 
 歌集のなかには、明るさだけではなく、物事の奥行を感じる歌が散見する。率直な歌いぶりだが平板ではない。1首目、「木星みたいに」の比喩に引き込まれる。物があるべきところにないことで、負の存在感を露出することを見逃さない。2首目は切ない歌だ。なんの技巧もなく、叙述されているだけなのに、生活の中の悲しみがひかっている。3首目。飼っていたウサギの死を淡々と読みながら、かえって命のありかを感じさせられて深い。ここには、大人も、子供も、ウサギも、それぞれ愛されるべき命をもった存在として向き合う姿勢がある。この悲しみはどこか清潔な感じがして、胸がしんとしてしまう。この作者の歌をもっと読みたい。ここには澄んだ言葉がある。
 
 
クロワッサンほおばりながら眠る子を見つける秋の畳の上に