眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌を読む会 第23回 齋藤史『秋天瑠璃』

いはれなく街の向こうまで見えてくる さよならといふ語をいふときに

                                                                 齋藤史『秋天瑠璃』  

「近代短歌を読む会」も今回で23回になる。 
今年の5月から齋藤史の『魚歌』、『ひたくれなゐ』を読み継いできた。今回はその三回目にあたり『秋天瑠璃』を取り上げる。巻頭に上げた歌は、平成2年の「氷菓」から引いた。平成2年には斎藤史は82歳、その2年前には帯状疱疹を患ってかなりな苦境に遭遇している。それにしてもこの歌の明るさはどうだろう。言葉はあくまでも軽く、思いは深く、そして精神性は高いところへと飛翔している。
その歌の出発にあったモダニズムの軽やかさをそのまま受け継いだ口語文体のなかに、人生の歳月に濾過されたさまざまな労苦の軌跡のすべて、そして生涯をはるかにふり返る心境を明るく澄んだ景として、しなやかに詠み込んでいる。また、一首にながれる流離感も見逃せないだろう。故郷を持たないものの乾いた寂寥感である。

 

 自分の心の内部に一冊の絵本がある。外界世俗に汚れない絵本。色彩もあれば夢もそこなわれないで耐へてきたそれは、さあ、ごらん下さいと人の前に差し出して晒すやうなものでなく、どこまでも自分のなかにひそめて持つてゐるものなのだ。しかし、それをぱたんと閉じる表紙に、人にさしのぞかれる事がある。或いはそれは人生の終わる時かもしれないが――。     齋藤史『現代短歌入門』より

 

さしずめ、この巻頭歌あたりはその一冊の絵本からもれた一筋のひかりかもしりない。

幼い時から職業軍人だった父の転勤にしたがって各地を転々とする。そうした生い立ちがこの作者からすっきりと土俗的な湿り気を払拭している。その環境がこの人の思考を、むやみな幻想へ向かわせず、日本的な土俗や過去に回帰せず、知的で冷静な理性を終生にわたってもたらしているようだ。「見えるもの」から越えて「見えないもの」を言葉にする。このあたりは前川佐美雄たちの歌風と一致している。その方法は観念を越えて説明なしに、いきなりものごとの中心をわしずかみしてしまう粗暴さと大胆さにあらわれる。

 

風船のふくらみゆくを人見をりある極限を待つごとくして 

  
眺めよき屋上に来てここより先は空へ翔ぶもの地へ墜ちるもの

   
一撃にて終わらざるものこれでもか、これでもかとて生木(なまき)斧打つ

   
野を貫(ぬ)きて青き狂気のごとくありし川来てみればすでに錆びたり

   
婚姻色の魚らきほひてさかのぼる 物語のたのしさはそのあたりまで

  
 1首目、2首目、生きることの核心をそのまま言い当てたような普遍性、3首目の暴力性は『魚歌』時代から変わらない。自らの中の狂気に触れて言葉がおののいている。4首目になると、そういう自己を客観視してゆるやかな韻律に表象している。単なる自然詠を越えて存在の本質を見定めているようだ。5首目はシニカルな歌。自分には恋の歌は一首もないという作者は、どこまでも冷めてクールだ。あまい感傷や幻想をこのようにして断ち切ることで、強い生への意志を感じる。

そして老年の史がたどり着いた苦いユーモア。そこに戦前、戦中、戦後をとおしてたったひとりの道を貫いてきた稀有な女性歌人の時間の厚みと自信のようなものも香り立つ。

 

葬式代をすこし貯めますといふときに苦き税吏がふとわらひたり

  
この病気では死にませんよといふなれば生きる算段をせねばならぬ

   
疲労つもりて引き出ししヘルペスなりといふ八十年生きれば そりやあなた