眠らない島

短歌とあそぶ

嵯峨直樹 第三歌集 『みずからの火』

くらぐらと水落ちてゆく 側溝に赦されてあるような黒い水   
 
この歌に出会ったとき、都会という空間がなまなましく立ち現れ、そこでうごめいているわれわれは「赦されてある黒い水」なんだという妙によろこばしいような実感をもったことを記憶している。この歌集をなんども読んだが、そのたびにきらきらとした充足感を感じる。それは、ここに生きてあることの本質のような言葉がちりばめられているからだと思う。長い思惟の時間から紡ぎだされた詩のような一行一行。作者があとがきに書いている「まずは編みたい一冊のかたち」として差し出された美しい生命体のような歌集である。
 
 
薄らかな被膜さわだちやまぬ夜 雲閉じ込めた脚が苦しい  
 
一首を読んで不思議な感じがする。薄らかな被膜とは自分の皮膚のことだろう。皮膚は外界と接してざわめいている。そこに「雲を閉じ込めた脚」がさしだされる。雲は普通はわれわれの外界に属するもの。それが体の内部に流れ込んでいる。ここでは、内部が外部であり、外部が内部ということか。皮膜が雲という外部を包み込み、閉じ込めている。内と外の境目が曖昧で溶解をはじめている。結句の「苦しい」はおそらく生きることの痛みを言っているのだろう。生命という内部と自然という外部には境界があるのか、あるいはないのか。私たちはみな肉体をもって生きているが、自らの生命の本質はまるでわからないままに生き延びている。この歌集にいたるまでに、生命の両義性ということが深く思索されているように思える。
 
生き延びてきた知恵と云い各々のたこ焼きの中とろとろの熱   
 
客観的な現実世界のなかで我々は生き延びるしかないわけだが、その肉体は「たこ焼きの中のとろとろの熱」だという。なんともアイロニカルな言い方だが人体をたこ焼きと等価に見ているところなど、この歌集を貫いているある種の批評性はまぎれもないだろう。
 
ひとという火の体系をくぐらせて言の葉は刺すみずからの火を  
こまやかな体系をなすみどりごの眼は現し世の風にくるまれ
濃霧ひとりオリジン弁当に入り来てなすの辛みそ弁当と言う     
 
1首目はタイトルにもなっている。体系というとき、そこには関係性が意識されている。ひとはここでは、身体と精神をも包含するひとつづきの体系として抽象化され、それは詩的には「火」として象徴されている。言葉もまた関係性によって立ち上がる体系。そこにアナロジーがあり、自らの火を刺すような言葉が欲しいということか。あるいは、「みずからの火」そのものである言葉を希求しているのであろう、歌集全体で。
2首目は、みどりごの目をまだ汚されない、あるいは損なわれていない生命の姿として美しく描かれている。3首目になると、主体はすでに大人だ。社会のなかで生きてそのなかで生命体は傷ついている。そこで人体の主体は「なすの辛みそ弁当」を注文している。このときの人体は「濃霧」として暗示されている。すでに外界に溶けだした曖昧な存在となっている。外部にひろがる社会の不安や痛みが内部のものとなって境界を侵食している。都会で生きている孤独感を可視化し、くっきりとした輪郭を与えており印象的である。
 
不安定な ( ぬく )血のなかちょこれいと暗くつやめく小雨の夜に    
もう君は不在だったのかこの朝の駐輪場は銀色の海         
チョコパフェのかたちくずせば甘やかな層は浸透しあって淫ら 
不完全な死を繰り返す月のかげ人の跡かたいくつ行き交う   
五指の間に五指をうずめる 薄らかな光ちらばる夜の市街地    
 
性愛と死とは親しいのは通念だが、それはひとつの生命現象のなかに含まれるからだろう。この歌集では性愛と死がさまざま局面に織り込まれている。肉体という表層を性愛が生命の内部にねじこんで、究極には死へと導く。われわれは生きながら死につつあるということを繰り返し確認する。
1首目は性愛の場面を暗示しているが「不安定なぬくい血」というように、表現は抽象化されている。肉体を「ぬくい血」とすることで内部が外部に漏れだしている。外側と内側が反転し、肉体が世界そのもののような不穏な印象を与えている。なぜ、そのように知覚されるのか、を問うと2首目がとてもわかりやすいようにも思える。外界には「君が不在」であり、善なるものが喪失されている。そのことは主体にとって決定的である。その喪失感あるいは「死」は予感のように、この歌集の背景に常にながれており、今生きてあるもの、つまり現在を脅かすのだ。そのため、
3首目のように生のがわに立てば「層」を崩しあう性愛は淫らでしかないし、死の側に立てば、生きてあることは「不完全な死」にすぎない。その淫らさは、ひとり肉体にとどまらず、5首目のように都会という外部もまきこんでしまう。
 
もの事の過ぎ去るちから レシートが繁茂しっぱなしの夜のキッチン  
多磨川にこまやかな雪降りしきる景色は誰の永遠 ( とわ )の予感か   
暗闇の結び目として球体の林檎数個がほどけずにある  
 
生命という現象を流れ去る時間のなかの一現象ととらえるならば、1首目は日常ということをよく象徴しているし、2首目は日常のむこうにふと現れる非日常的な風景の美しさを永遠のものとしてとどめたいという願いが響いている。時間は常に過去へ過去へとわれわれを送りこんでしまうが、永遠を幻視したいと思う時、まぎれようもない現在がたちあらわれ、4首目のように「球体の林檎」という物質が永遠のように出現している。
 
語るべきことは尽きない。この歌集の中のもっと美しい歌について語るべきかもしれない。しかしそれらの歌はただぼんやりと浸っていたい。
 
見送って帰る道筋このような ( おだ )しき時のあるということ