眠らない島

短歌とあそぶ

武富純一  第一歌集『鯨の祖先』

 
 武富純一第一歌集『鯨の祖先』を読んでいて、懐かしい気持ちに誘われた。それは若い頃から軽く反発しながらも、どうしてか惹かれて何度も読み返してしまう石川啄木の歌と通じるものがあったからである。後書きをみると果たして、大学時代に石川啄木の歌に親しんだと記してある。この歌集と通じる情感はそこに由来するものであったようだ。それにしても、若いときに自分の資質と近い歌人と出会えたことはこの作者にとって幸運なことだったのではないだろうか。
 
 武富の歌は平易な言葉遣いで、その素直な口語体は読者に全く負担を掛けない。どちらかというと、わかりやす過ぎて、平俗に陥るかとも危ぶまれる部分もある。しかし、読み進めていくうちに何とも言えない悲しみが胸に迫ってくる。その悲しみとは、啄木がそうであったように、自由な世界を希求しつつ、遠いものに無性に憧れる少年のような心である。しかし、普通の大人になってしまった武富にとってそれはかなわぬ願いであり、現実の生活の中では自分をもてあまして身の置き所なく途方に暮れている心でもある。東北人である啄木はそういう心情を甘美な情感をこめて歌い上げた。大阪人である武富は啄木のようにウエットにならずに、恥ずかしそうに照れ笑いしながらユーモアに包んで差し出してみせる。
 
酔ったオッサン傾いてきたとかメールされているのだろう我はいま   
 
こうした自己戯画化の歌の裏には、自己への醒めた視線がある。現実の中でみっともない姿をさらしている自己像を描くことの背景には、果たされなかった夢や、青春への喪失感が流れているのだろう。
 
水底に錆びし空き缶ゆらめいてかつて満ちたる甘きコーヒー  
「まぁええか」呟くほどにまたひとつ失うものが増えてゆきたり   
 
歌集の巻頭から二首引いた。錆びた空き缶を満たしていた「甘きコーヒー」への捨てがたいノスタルジアが気取らない言葉で綴られている一首目。二首目は、否応なく生きる時間のなかで失ってゆくものへの切ない愛惜。この二首に、歌集のモチーフは明確に提示されている。その主題を、甘い詠嘆やぼんやりした情感に流さずに、あくまでも具体に即してカラリと歌い込んでゆく。読者に気持ちの負担を掛けない配慮。武富のシャイな人柄がこうした文体を要求している。
 
ペンたちに高く囲まれ天を向く尖ったままのトンボ鉛筆    
我が家へのいつもの角を曲がらずに消えかけている虹へ加速す   
 
一首目は、見巡りの文房具から題材を得ている。今ではあまり使われなくなってしまった鉛筆。それが使われないまま、高々とペン立てに立っている。そこに、社会の流れから心ならずも取り残されている自画像を見ている。また、二首目は自転車の歌であるが、自転車を漕ぐことで日常の時間からほんのしばらく解放されたいという願いが、美しいフレーズに込められてもいる。
 
科学誌に鯨の祖先は河馬とあり我が空想は真実となる
浮く力活かして歩む水のなか巨漢で生きる河馬の選択   
 
 ところで、この歌集のタイトルの意味がこの二首からなんとなく推測できる。一首目の歌の真偽のいかんに関わらず、鯨の祖先とは「河馬」であり、そのような巨漢である自分自身でもあるという認識があるのだろう。これは、なかなか魅力的な自己像かとも思う。大海を悠々と泳ぐ鯨は自由そのもの象徴でもありながら、その大きさ故にどこか悲しみを誘う。ここでは武富の心の中に浮遊しているあこがれと、断ち切られた悲しみは巨大な鯨に託されている、これは歌集中に繰り返し登場するモチーフでもあるが、武富のもっとも優れている美質は次のような作品にあるようにも思う。
 
  これくらい自分でさせてはくれまいかトイレの灯り勝手に点きぬ   
 
  わが手より三歩駆け出し待っている自動改札茶色い切符    
 
  マンションの外階段の踊り場のずっと点きたる灯りを見上ぐ  
 
 一首目、現代の息苦しい生活の細部に触覚を敏感に働かしている。トイレの灯りさえ自動化されている。そこには、選択する余地を事前に奪われている主体意識がある。しかしまた、二首目には、そういう文明の機器に硬直した反発だけを感じるのではなく、まるで自分自身の分身のような切符の存在をぬくもりのある気持ちで受け入れる。このみずみずしい感性に読むものはほっとして救われる。また、三首目には、都会の夜の光景に人間の孤独な心象を重ねている。こういう、日常の光景の中に生き生きと心を動かす感覚も啄木に近いものを感じるのは間違っているだろうか。
 
 ここには、不自由な現実の中で辛うじて生きている人間のささやかな営為への温かいエールがあるように思う。武富の歌の世界には、消えてもまた見えてくる希望のあかりがいつまでも灯っている。
 
 
  雨やまず雫の先の信号は何度もなんども青となりたり