眠らない島

短歌とあそぶ

山下翔 第一歌集  『温泉』

ぶだう食べてゐればぶだうを食べるしかできずに秋の日を跨ぎたり 
 
山下翔の作品にはヒューマンなぬくもりがあって何十首つづいても引き込まれて、読んでしまう。それは、連ごとにストーリーが仕掛けられていて、その主人公をつい深追いしたくなってしまうからかもしれない。主体には若くてはじけるような体力があるだけでも魅力的だ。しかもその出自には明確には語られないがどことなく不幸な影があり、心理に陰影を深く彫り込んでいる。九州の長崎あたりの風土が、軽く浮きそうな時間性を骨太く底支えしており、どことなくノスタルジックな古風な抒情さえ感じる。

それにしても、歌集全体を覆うこの濃い生命感は昨今の若い層の短歌と比べて尋常ではない。あふれる食べ物の歌もその歌の生命の濃さを十全に象徴するように機能している。恋人との別れや、家族との軋轢が詠われていても、その苦しみや悲しみ、あるいは葛藤する存在への空虚さや絶望感がない。むしろ豊かな感情の高まりがあり、あたたかな体温を感じる。生きづらそうに見えている人生をありのままに肯定しているようにも思う。作者の年齢の若さをおもうと、この厚みがある世界に驚嘆するのだが、ここにはすでに成熟した世界観のようなものも萌している。巻頭に挙げた歌も食べ物と生とのかかわりが鮮やかに描写されている。題材はあくまでも葡萄からはなれない。誰でも体験するような心理をさらりとスケッチしてそこに季節感がさりげなくさしこまれる。俗っぽい題材を人間存在のありように昇華して詩的に仕上げる技がさえている。
 
霧雨のなかへ傘さすうつしよはぬくいよ金がこんなにぬくい    
 
「借金」という連作のなかの一首。歌集のなかではそれほど優れた歌ではないが、お金を借りて帰るときの場面で面白い。どちらかというと自己戯画化したきらいがしないでもない。しかし、徹底的に意識のレベルを下げて、そこに実感をこめようとするこの方法は、どこか近代短歌の源流に近いずぶとさを感じてしまう。
 
かわきたる喉に捩ぢこむやうにして白飯食へり暑き午後より      
 
 こういう歌に会うと、大正の初めころの若かった茂吉や、牧水、白秋たちの生命感の押し出し方と通じるものがあるような気がしてくる。まだ写実主義一辺倒にならない前の混沌をかかえたころの近代短歌の原点。それはやがて茂吉の「自然・自己一元の生を写す」というテーゼに流れ込むのであろうが、ある種、一元主義の楽天性がここにはあるようにも思う。ただ、山下の場合、どこまでもさめた自意識に裏打ちされていることが現代性を帯びているともいえよう。
 
追ふともう二度と会へなくなるんだよとほく原付のミラーひかつて  
湯桶かさねてかさねてたかき歳月の向かうとこちらは母と子のわれ    
 
1首目、恋人との微妙な関係が哀切な心理の言葉になって呟かれる。バイクで去っていく恋人を追いかけたい衝動を精一杯抑えている。また、会いたい、会えるかも知れないというわずかな希望を残すために。繊細な青年のこころが震えている。2首目、歌集をとおして一番多く登場する母。「かさねてかさねて」のリフレインに長い時間を経た母への思慕がある。この歌集の主題は母恋かもしれない。あるときは母のかたわらに、あるときは遠くはなれたところにいる母を想う。母を詠むことで、自分の生きてきた歳月をあるいは存在をいつくしみながら確かめているのかもしれない。
 
母にかはつてとほくから来るバスを見きつぎつぎに行先を母へ伝ふる   
 
母に何かできることが喜びであることを衒いなく詠いあげている。最近、こんな若い人の歌を見たことがない。新しい現代の聖母子像のようにも見える。ここにイノセントな世界が開けており、言葉への信頼が輝いてみえる。
 
山下翔の作品はフラットでありながら、高い叙情性をも担保している。そこにはさりげなく精緻な修辞が練り込まれている。歌集中には目を覚まされるような美しい歌がところどころに差し込まれていてはっとする。この作者のたぐいまれな才能を目の当たりにして、息をのむ。そしてふっと息を抜くような歌にもやわらかな感受がある。
 
ひかりさす方へかたむけて読む本のあかるいなあ春が過ぎようとして