眠らない島

短歌とあそぶ

なみの亜子  『「ロフ」と言うとき』


山の深みに働きはじめしチェーンソー伐られゆくとき樹のこえ太し
 
短歌は叙情詩だということは自明のことのようであるが、その発生からみるとそうとも言えない面もある。大正のころ、さまざまな試みがなされるなかで、釈超空は短歌の叙事詩としての可能性を探っていた。なみの亜子の歌集を一読、二読するにしたがって、ここに展開されている歌群は、作者が生活している土地、そしてそこに住み着いている人々の、それは作者自身もふくめての時間と記憶の言葉ではないのかという思いがする。
 
猟友会のオレンジ・ベスト固まりて見上げていたる山の入口     
バスに乗るにもまず家よりは車にて山を降りくる山の人らは 
津波おこせし山の工事場に落石のありまたひと死にき     
線路無き五新鉄道谷またぐ谷より巻きあがる蔦を枯らして      
 
一首一首は、モノにはあまりつかず、どちらかというとコトにつく詠方が用いられている。ここにランダムに引いた歌には、山で暮らす人々のさりげない日常や、そのなかに当然含まれるや人や動物の死がとくに修辞的に引き揚げられることなく淡々と語られる。また、4首目は、実現しなかったまま廃線となった鉄道のありさまと自身の身辺に起きた災いとを語り合わせた一連の中の一首。そういう土地にまつわる歴史的な事柄を詠むことで、山の暮らしの盛衰がうかがわれ、記憶を呼び起こし、物語性を孕むようである。
 
これらの歌はそれぞれある感情のかたちをまとっていながら、群として立ち現れると、個別性を越えた生活感情を醸しているようにも思われる。個別の事柄はもちろん、作者の身辺にまつわる雑駁な日々の起伏なのだが、そこにあらわれてくる喜怒哀楽のありようは、原初的なエネルギーを発散させればさせるほど、どこか神聖であり、人が、あるいは自然が存在することの普遍性を帯びてくる。それは人間が生きることの基底にある悲しみのかたちをもっとも通俗な形で紡いでいるためかもしれない。
 
 
なにもかも どうでもよくなるということの羨ましさに母を思えり   
なんとなく肩のすぼまる秋山に、おい秋山来たぜ、と声かく    
ようようと胸をひろげてとびたてる山のとんびは急ぐことせず   
たっぷりと踏み込んでゆく山みちに渓流にきみのむかしの歩みは  
 
 1首目、痴呆の母を詠む歌はあふれているが、ここでは切迫感や悲壮感からはとおくてふっと脱力している。それだけにかえって悲しみもあるが、それよりもこの世離れした母のすがたに羨望するという感情がのびやかで印象的だ。
 2首目、山との共感覚が簡潔にかたられていておもしろい。3首目、とんびはこの歌集の随所に登場し、山の精のようにゆったりと旋回する。ここにとんびの時間と空間がひろがり、スパンの大きな山の世界を形成する。人々はその時空間のなかで生きている。
 そして、4首目はこの歌集のとおして大きな横軸となっている病身の夫を詠む。歩行が困難になった夫の存在を「きみのむかしの歩みは」とすることで、ひとつの時間のながれとして山に返している。ここに個別性を越えた存在と、土地の記憶とが絡み合っている。
 
夢にひとはキャッチボールをしていたり駐車場のようなところで    
もう死ねと自分に言いて歩き出す杉に暗める山のなかへと    
身体ごと母はるちゃんに会いたいよわたしこんなにくたびれちゃった  
 
歌集を読んでいてやはり胸に迫ってくるのは、不随となった夫への愛憎の葛藤、そして、母へのせつないほどの思慕であろう。このふたりとの関係はとても輪郭がくっきりしていて歌集に精彩をはなっている。ときに凄惨な感情を虚飾なく描き切ることで読む方は不思議に厳粛な思いにさえさせられてしまう。老いや病いそして家族と格闘しなが生きようとする人間像はまるで古代の神々のように、ときに粗野であり、酷薄であり、おおらかな愛情と生命力に溢れている。おおきな土地の時間がゆったりと織り込まれ、泥臭くも神聖な神話のような世界を形作っている。とても体温の高い歌集であるにはちがいない。
 
絶望はむしろなつかしき手触りにわれをとらえよ山に鳴く鹿