眠らない島

短歌とあそぶ

小谷博泰 第10歌集 『シャングリラの扉』


  散り急ぐ並木の道を歩みきて堂島でホットサンドを食べる   
 
 小谷博泰第10歌集『シャングリラの扉』が出た。第9歌集『うたがたり』は2016年に刊行されているのでその間、わずか一年。その前の第8歌集『昼のコノハズク』も2015年に出ているので、ここ三年間で三冊もの歌集出版となっている。こんなに短い期間で三冊もの歌集を出すにはかなりの気力が必要だろうとおもいきや、小谷の今回の歌集を読んでいて、歌を作ることがこの作者にとって、ほんとうに楽しいことなのだなとつくづくと思えた。その幸福な気持ちは、歌集全体をふんわりとした生命感で支えている気がする。歌数は507首とかなり多いにもかかわらず、一冊を読むことで、気持ちが解きほぐされるような安らぎを与えられる。それは、日常を詠みつつ、不思議に現実感がうすくて、見え隠れする自意識が押しつけがましくない。これはとても読むほうにはありがたい世界である。

巻頭にあげた歌も、本当にさりげない一日のワンショットなのだが、この1首の歌の中に自然に気持ちを沿わせることができる。うつりゆく晩秋の風景があり、そこに時間が「歩み来て」という動きのなかでゆったりと流れている。そして「堂島」という大阪御堂筋の地名も親和性を呼びこんでいるし、食べ物の「ホットサンド」もよく利いている。なんでもないことの充足感を過不足なく読み込んでいて、熟達の技だなあと感心して読んだ。
 
  暑き日の長く続きぬ銀行の入り口にヤンマが死んでいて雨   
  さかなやに大きなチヌの売られおり店かわりたる駅前通り    
  駅員が階段の雪を掃いておりケーブルカーの外はふぶいて     
  駅を出れば雨降る街のさびしさに出会いぬここに我はなお住む 
 
 この歌集は6月から始まり、年を越して4月で終わる。この季節の移ろいがさりげない市井の光景によって鮮やかに書き留められている。やはり、短歌を読む楽しみは、時間の移ろいを言葉によって感じ取るこことができることかもしれない。
一首目、晩夏の歌。銀行の入り口とヤンマの取り合わせがとても新鮮。都会の季節感と滅んでゆくものへの哀感が印象的。二首目は冬か。さかなやに「チヌ」が出ている。そこに冬らしい匂いが漂ってくる。そんな街の表情をあまり思い入れせずに、さらりと描いていて気持ちが良い。三首目、六甲山へ登るケーブルカーか。これも駅員の動きを簡潔に描くことで、かえって雪の日の寒さがくきやかに伝わってくる。四首目、蔭りをおびた表現のなかに住む街への愛着が素直に詠まれていて共感する。
 
 このように、日常を丁寧に詠みながら作者の心はもう少し遠くにあるものも見つめている。歌集のなかに、心地良い浮遊感がある。日常の風景をどこか懐かしいものとして突き放してみる視線があり、それが日常詠の陥りがちな散漫さや平板さから免れている。歌集のタイトルである「シャングリア」とは理想郷のことらしい。この作者の歌にはいつも、現実から解き放たれた異界への恋慕が流れている。それは、みずからの原郷への希求であり、とりもなおさず、この世に生きることの寂しさが原点にあるように思う。
 
  弟も妹もどこかでねむるだろうこよい粉雪がふるともなくふる  
  この谷の底より聞こえる泣き声は遠き日のわがうぶ声にして  
  街はいま異郷の景色あかんぼうを抱く若き母前をよこぎり  
 
 一首目、二首目は童話的な連作のなかの歌。一首目は、狐の子が主体なのだが、寄る辺ない子どものころの寂しさが粉雪のように降り続いている。二首目の「うぶ声」も同じく、この世に生きることの寂しさを泣いているようにも聞こえる。三首目には、はっとした。現実の街も作者には「異郷」である。「あかんぼうを抱く若き母」が現れることで、現実の街はたちまち異郷の様相にかわる。ここには失ってしまった母なる国へのつきない愛惜と悲しみがある。その思いが、この作者に泉のように歌を詠ませるのだろうか。
 
 
   すりむいた肘が痛いと夕暮れにほろほろ心が泣きはじめたり