眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌を読む会 第13回 『斎藤茂吉歌集』その1


三回目の斎藤茂吉になった。

岩波文庫斎藤茂吉歌集』をテキストにして『つゆじも』から『暁紅』までの9冊を読んだ。メンバーの中には、このアンソロジーではなく、一冊ずつ全てを読破してきた人もいてなかなかハードな会になった。
 
〇全体の感想
 
今回は歌集が多かったこともあるが、9人がそれぞれに、全く違った歌風の歌を引いていることに驚きを感じた。そこが茂吉短歌の懐の広さであろう。ドイツ留学を挟んで、茂吉は自己の『自然、自己一元の生を写す』をいよいよ実作で示さねばならない。プロレタリア短歌、民衆詩、口語自由詩の隆盛のなかで、昭和歌壇を牽引する重力のある歌を茂吉は求めていただろう。自らの太い声調を崩しても、無機的で、散文的な歌にも挑戦している。おおらかな韻律や、湿った詠歎ばかりでは立ち行かない時代が昭和に訪れたのか。茂吉の奮闘によって、近代短歌は豊かな題材を取り込んで、分厚い世界を構築したように思う。
 
〇 上句の密度
 
この度、茂吉短歌における上句の作り方のうまさに特に注目した。自然になめらかにかつこまやかに言葉を繰り出しながら、的確にしかも濃厚に空間や時間を確実に練り込んでゆく。そのうえで、下句で一気に転換したり脱力したり、飛躍をいれたりする。
歌を良しあしは結句で決まるとよく聞くが、やはりそれは動かぬ上句あってこそだろう。
 
 
〇 参加者の5首選から論議したこと
 
・あそぶごと雲のうごける夕まぐれ近やま暗く ( とお )やま明し  『つゆじも』

上句の軽い入り方がうまい。それでいて、きちんと景を立ち上げている。
下句のやわらかいリフレインも効果的。
 
・ゆたかなる春日 ( はるひ )かがよふ狂院に葦原次郎つひに老いたり  
                    『つゆじも』
 
この歌はやはり「狂院」と「葦原金次郎」といういかにも仰々しい名詞が歌にインパクトを与えている。このギラギラした言葉をぶつけながら、余計なことは言わない。上句は実におだやかだし、結句はほどよく脱力している。そうすることで葦原金次郎というひとりの人間が浮かび上がり、そしてはるかになる。こうして存在感を引き出すということか。
 
・空のはてながき余光をたもちつつ今日よりは陽がアフリカに落つ 
                      『つゆじも』
 
ドイツへの長い船旅の途中の歌。これは、後で思いだしながら詠んだ歌であろう。平明な叙景歌にしあげながら、遠く時間をかけて旅をしてきた思いをこれ以上なく豊かに表出している。
上句もゆったりと入りながら、夕暮れ時を示し、さらに下句では広大なアフリカ大陸を眺望している。主語を「陽が」としたことによって、時空間が天象まで広がっている。
 
 
大馬 ( おおうま )の耳を ( あか ) ( ぬの )にて包みなどして麦酒 ( びいる ) ( たる )を高々はこぶ  『遍歴』
 
 旅先の珍しいものに目がゆく。それを整えずにそのまま投げ出した感じで詠むことで、曖昧さをそのまま表現している。その場に遭遇した作者自身の高揚感があふれている。
茂吉は、馬や、麦酒の樽など、モノの実在感と向き合っている。そこに茂吉の精神性の強さを感じる
 
・青き野に強き光のさすときに空にひびかふこほろぎのこえ   『遠遊』 
 
全体に宇宙ぽっい感覚がある。異空間に入っていくときにきこえてくる虫声が不思議な感じ。また、この歌には「に」が三回使われている。格助詞「に」の限定力を活かし、強く押し込んでいゆく力をうまく生かしている。
 
・黒貝のむきみの上にしたたれる檸檬の汁は古詩にか似たる  『遠遊』
 
檸檬の汁」から「古詩」を連想する言葉の感覚に驚く。檸檬の香りと古詩の芳しい叙情とが触れたのかもしれない。いずれにせよ、食べ物の場面から「古詩」を出してくるのは非凡であり、かつ、さりげなく言い下しているのがよい。茂吉の知識、教養の高さが呼び込んだ比喩。
 
・家いでてわれは来しとき渋谷川に卵のからのながれ居にけり 
                   『ともしび』
 
「卵のから」という破壊されたものに心がゆく感覚はどこか「赤光」と通じるところがある。
この歌も、上句から、下句へなだらかに詠みくだしつつ、意外な転換があり、読むものをはっとさせる。現実のなかにおかれた物の実在感を立ち上げている。
 
 
・落葉せし木立のなかや冬の日の入日のひかりここにさしけり  『白桃』
 
上句で空間と時間が自然に設定される。そこにすでに孤独な情感が流れている。さらに下句では「ここにさしけり」とすることで、かすかな慰安があらわれるし、自分だけの静かな時間が流れている。強い意味のある言葉は使わずに、ある感情をなめらかな韻律によって表出する。
 
・寒くなりしガードのしたに臥す犬に近寄りてゆく犬ありにけり  
                   『暁紅』
 
主観語を排して、現実の一部を散文的にスケッチしている。犬の動きを描写しただけだが、ある感情がその裏に張り付いている。言い過ぎずに、意味をかさねず、しかも命の切なさに迫るような粘りがある。