眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌を読む会 第15回 「つきかげ」

昨年の秋から読み継いできた斎藤茂吉も今回で最後。なんだか名残惜しい気がする。どの歌集にも秀歌があるが、私としては昭和にはいってからの歌集が断然おもしろいように思える。「赤光」は感覚的な歌には引かれるが、「死にたまふ母」や「おひろ」あたりは題材にもたれ過ぎてやや俗っぽい感じもする。あるいは青年のナルシズムがやや鼻につく。
 
ドイツから帰ってきた茂吉は、単純な題材、よくある光景から歌を立ち上げる修辞、あるいは感情の抑制した出し方を試行錯誤しているように思える。くせのある自我とあいまって独自性をもたらし、一首を屹立させている。
 
今回は遺歌集となった「つきかげ」を読む。66歳から70歳までの974首。昭和23年から昭和27年までをたどる。これで、全部読んだのは三度目だ。「白き山」と、「つきかげ」は目についた歌をノートに書き写した。「白き山」が76首、「つきかげ」が61首。作られた期間を思うとやはり、体力の衰えはあからさまだ。しかし、23年、24年あたりまでは、かなり面白い歌と出会うことがたびたびある。力のこもった「白き山」とは対照的な脱力の方向だろうか。
 
 
〇参加者の5首選から
 
眼のまへの売犬の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ
 
円柱の下ゆく僧侶まだ若くこれより先いろいろの事があるらむ
 
衰へしわが身親切をかうむりぬ親切はひかりの満ちくるごとし
 
枇杷の花冬木のなかににほへるをこの世のものと今こそは見め
 
黄蝶ひとつ山の空ひくく翻へる長き年月かへりみざりしに
 
東京の春ゆかむとしてあらがねのせまきところに麦そよぎけり
 
ぶらぶらになることありてわが孫の斎藤茂一路上にあるく
 
たかむらの中ににほへる一木のあり柿なるやといへば「応」とこそいへ
 
潟づけぬくくり枕より蕎麦がらが畳のうへへ運命のこぼれ
 
残年はあるか無きかの如くにて二回にのぼり間昼間も寝ぬ
 
われつひに六十九歳の翁にて機嫌よき日は納豆など食む
 
軍隊が全くなくなりあかあかと根源の代のごとき月出づ
 
その音はあるときわが身に沁みぬ地下鉄道電車の戸のしまる音
 
戦後派の一首の歌に角砂糖の如き甘きもの少しありたり
 
地下鉄の終点に来てひとりごるまぼろしは死せりこのまぼろし
 
 
〇資料
 
今回、レポートするにあたって、日記や手帳に少し目を通した。そしてあらためて、斎藤茂吉という人の濃厚さに驚いた。日記には、自分という存在を疑わぬ強靭な何かが露出している。また手帳にも驚く。見たもの、遭遇したものを絵まで添えて丹念にメモしている。そして圧倒的な推敲の跡。茂吉は昭和23年から26年にかけて8冊もの歌集を出している。中には20年近く歳月を隔てている歌集もある。茂吉はそういった過去の自分とどんな思いで向き合ったのか。いつの時代のどこにいようとそれはたった一人の自分自身にはちがいない。一首、一首、歌にしあげてゆく作業は人生をもう一度生きなおし、意味づけてゆく悦びでもあったのではないか。
 
 
近代短歌を読む会  斎藤茂吉『つきかげ』資料
              2018・3・20 報告者 岩尾淳子
 
年譜  『斎藤茂吉伝』藤岡武雄 より
 
昭和22(947)66歳
11月3   疎開先より帰京
11月4日   世田谷代田に到着
11月20日  東京裁判傍聴
12月24日 「椋鳥通信」執筆
 
昭和23年(1948)67歳
1月26日   義母ひさ逝去 83歳
4月5日    『遍歴』岩波書店より刊行
7月      朝日新聞歌壇選者を受諾
10月     宮中歌会始選者就任
 
昭和24年 (1949)68歳 
4月      新版『赤光』千日書房より刊行
4月20日   歌集『小園』岩波書店より刊行
8月20日   歌集『白き山』岩波書店より刊行
 
昭和25年(1950)69歳
1月30日   歌集『ともしび』岩波書店より刊行
6月30日   歌集『たかはら』岩波書店より刊行
7月      箱根滞在中、心臓喘息の兆候
10月18日  次兄守谷富太郎75歳で亡くなる
11月15日  歌集『連山』岩波書店より刊行
 
昭和26年(1951)70歳
3月      心臓発作 呼吸困難
6月15日    歌集『石泉』岩波書店より刊行
12月20日   歌集『霜』岩波書店より刊行
12月     佐藤佐太郎編『斎藤茂吉秀歌』中央公論社から刊行
昭和27年(1952)71歳
4月6日    「武蔵野」で鰻を食べる。最後の外出
4月27日    心臓発作 出血
昭和28年(1953)72歳
2月25日    朝、餅、半熟卵、おすまし、すりおろした林檎
         午前11時20分 心臓喘息のため亡くなる
戦後の状況
 
21年4月
連合軍最高司令官マッカーサーの指令により、文壇における戦争責任者の摘発発表はじまる。日本民主主義文化連盟が主導
21年11月
雑誌『世界』に「現代俳句について」という題をもった第二芸術論を桑原武夫が執筆
以後二十三年にかけて短歌否定論隆盛
21年12月
短歌雑誌『八雲』創刊
22年6月
歌人集団結成
近藤芳美『新しい短歌の規定』
 
 
 
 
斎藤茂吉全集第三十二巻「日記」より
 
昭和22年
 
11月10日  
午前 佐藤佐太郎君来て昼近くまでいた
午後 上野の泰西名画展、二本美術展に行った
11月20日  
午前10時半、堀内君毎日新聞社記者同道にて来り、切符持参して東京裁判に行く。   連合国側の人来るときには起立、被告、傍聴人、検察官、等。
午後4時近く終了。 電車乗り遅れ、混雑のかめひどい目に遭った、体がもまれ、帰宅後疲労して寝た
12月14日
第一国立病院いてあららぎ歌会に出席。新宿駅のところにて近藤芳美夫妻に会う。
土屋は大御所にてあわててハイヤーにて東京駅に行き、熱海の陸軍病院の分院にて豪遊するなりといふ。従者数名あり。
堀内君と柴生田君と送って来、柴生田君は新宿駅まで来てくれた。
12月20日
杉浦明平横光利一論をよんだが、不愉快なごろつき不良児の口吻であった。
このごろのあららぎは不愉快のかたまりである。
12月26日
「椋鳥印象記」を書くことになる。
 
昭和23年
1月6日
新宿の紀伊国屋に行って見たるに、本の出版が非常に盛んであった。雑誌「明星」が非常に有利の場所に並んで居り、紙質も立派で表紙も立派であるが「アララギ」の存在は全く不明なる程であった。
1月29日 皇居で選歌
2月5日
今夜こそ勉強せんとしたるが、戸の張り紙などをしてしまった。
やはり、体力の衰えたるいろいろの要求のみあっていじめるようにおもわれる。
2月8日
午後四時柴生田稔君来たり。あららぎはお自分のものだからもうすこし骨を折ってもらいたいといった。今自分そんなことを言ったところで既に手遅れである。すでに土屋幕府が成立した後ではないか。そうしてもう体力が衰えていかんともしがたい。その他山口のことなどもかれこれ言うから君はどちつかずに純粋でないとも言った。
3月4日から9日鼻血
この頃博物館などゆくも、疲労甚だし
5月10日
正午に土屋文明氏来る、涼しい日でどてらを着ていた。アララギの責任解除してもらいたきこと、明春、山口大学の教授になること、万葉を講ずること等、いろいろし、午食してかえった。
5月11日
長塚節全集の解説を書いた
6月17日
国立病院のアララギ歌会に出席
七月
箱根へ 歌整理
昭和24年
1月19日(木)
面会日 終日臥床したるが午後に冷汗いづるほど苦痛息苦しかった
1月24日
宮中歌会始
4月15日
歯科医、道中も動悸がして弱った。尿中の蛋白増加
6月1日
「白き山」校正
昭和25年
1月31日
宮中歌会欠席  作歌試む、出来ず。
 
 
手帳  六十一から六十四より 
 
昭和二十三年
五月十五日(土)
〇馬  〇紅すかし百合(赤味帯びた百合)
税務署へ届けに行かむ道すがら馬にあひたりああ馬の顔
四月十八日
しづかなる通りに出でぬ進駐軍の宿舎もありて
〇しづかなる住宅街をとほりけりをりをり進駐軍の番号ありて
〇浅草
〇腹ばへになりて流をのぞきゐる二人の児童なかなか飽きず
          みおろせる
腹ばひになりて流を観おろせる二人の児童なかなか飽かず
 
人力車ひとつ北方へゆく
〇晩春の浅草となり人力一つ北方へむかひて走る
 浅草に春暮れんとし
浅草の晩春となり人力車ひとつ北方へむかひて走る
二十一日
銃殺をされし女性にこだわるかこだはりもせず
目隠しをされし女の銃殺をまのあたり見むわが境界ならず
 
七月三日  ヒグラシなく
年の半ばは過ぎ去りにける/われにくはるる鰻は尊きかも
汗垂れてわれ鰻食ふしかすがに吾よりさきに食ふ人のあり
 
〇ぶらぶらになることありてわが孫の斎藤茂一路上をあるく
     のことはありとも        道路
          れども
ぶらぶらになることありてわが孫の斎藤茂一路上をあるく
 
〇東京の空あかくなり見えしとふ話をききて心かなしむ
東京の空よもすがら赤くなり見えたりといふ頃も忘れな
 
〇早雲山くらくしげりて
しろきくも中空ひくくひびくまで
白雲は中空にしてひびくまで早雲山をおろして来たる
〇 思ふなよわが細胞は刻々死するに
みづからの落度などとは思ふなよわが細胞は刻々死するに
昭和二十四年
                  追はむとする           となりつる
       しづかにさむきうらうらもの迫尋の衝迫もなし    は過去の生のこと
〇一月の一日になりこころよし〈たひらかなり〉〈しづかさよ〉感激なども消滅せしごとく
                              も何も無くなりて
一月一日しづかに寒きうらうらもの追はむとする衝迫ならず
                    ざるものを
淡々としたる生活に似たれども必ずしも然にあらずけり
              それはいちにちの二時間に過ぎず
日々のいのち淡々 ( あわあわ )としてある時にわがまなかひに見えくるは何
〇白壁にうすべり一枚立てかけありその左手に高ぼうきとちりとり  
                 清らなれども人の香ぞせぬ
                 朝まだきより清らなる部屋
白壁にうすべり一枚たてかけあり清められたる廊下をゆけば
              言はむとす
目のまへに売犬の小さきを見てわれおもふ生長ののちは賢くなれよ
            ものどもよ       
目のまへの売犬の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ
 
昭和二十五年
                 ぞゐる
みそ汁に卵を入れし朝がれひのこりてゐたる生の安楽
〇黄卵をひでてくひたる朝がれひあといくたびかのこりの年は
               平凡にして平凡ならず 安楽
黄卵を味噌汁に入れし朝がれひあと幾とせかつづかむとする
 
手帳六十五   推敲ノート
 
天雲の上よりきたるかたちにて最上川のみづあふれとどろく
              最上川のみづ今ぞとどろく
北空にするどき山の並べるは秋田ざかひとおもほゆるかも
                   いひかはしけり
われひとり悶ゆるさまを人な見そねあな苦し国のためには
                    国はやぶれて
春の光日ねもす照れど川の洲につもりし雪は丸くなりたり
                      のこれる