眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌を読む会 第12回 斎藤茂吉 『あらたま』


ものの行きとどまらめやも山峡の杉のたいぼく寒さのひびき
 
 
今回は第二歌集『あらたま』を読んだ。大正2年『赤光』を出して歌壇を越えた圧倒的な評価を得た茂吉はその後、力強く自分の歌風を確立する。
 
 斎藤茂吉といえば、山形の風土、自然と密接なつながりを持つ歌人と言われている。それに違いはないが、この時期の茂吉はニーチェロダンなど西洋の知をどん欲に吸収することに余念がない。ニーチェは茂吉本来の根源性や原始性をゆるぎないものとして理論的に補強したであろうし、ロダン大正九年に提唱する「実相に観入し、自然自己一元の生を写す」という独自の写生論の確立への礎となる。また、「象徴」を唱えるが当時の「象徴主義」とは少し違った意味合いで、自分なりの解釈を打ち立てている。茂吉はまさに当時の知識層の中心にいた。しかも、茂吉は西洋の知を鵜呑みにせずに咀嚼しつつ、日本古来のアニミズム的な感覚をとおして理論を再構築している。茂吉の言葉でいうと「命の真実を観る」ことか。
 
茂吉が古今東西の文献を渉猟しながら、いかにこの時期苦しみながら自分の作風を構築したか、「童馬漫言」を読んでいてそのエネルギーに圧倒される。
 
大正4年、土岐哀果との論争の時期から抜粋する。
「予が集中して来て、本気に歌を詠まうとする刹那はまさしく一腔の火炎である。うちに張り切つた力の一団である。…苦悩と嘆息との裏にあらゆる障礎を炎焼しつくすとき、予の命はぽつりぽつりと言語に乗りうつつて来る。妙歓喜ここより始まる。」
「己の行く道は間違つてゐない。むろん苦悩道であるから時々へたばる時がある。けれども己は歩兵のやうに進む。…もう凡俗がいくら饒舌を振るつてもみな反発してしまはねばならない。己は自分が大切で仕方ないのだ。己の真似などしないがよからう。」

茂吉の強い気概が感じられる文章だ。
 
さて、茂吉は「火炎を燃やし」詠んだ歌はどのような歌だったのか。粘着力がある文体で内面に入り込む歌から、しだいに平明でかつ密度の高い表現へと移行する。また事物だけではなく、見えないもの、またものや人物の動きなど時間や意識を重層的にとりいれた表現が新鮮である。
 
〇参加者の5首選から
 
いきどおろしきこの身もつひに黙しつつ入日のなかに無花果を食む 大正2年

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり

にちりんは白く小さし海中に浮かびて声なき童子のあたま  大正3年

妻とふたり命まもりて海つべに直つつましく魚くひにけり

この夜は鳥獣魚介もしづかなれ未練もちてか行きかく行くわれも 

ふゆ原に絵をかく男ひとり来て動くけむりをかきはじめたり

ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも

まかがよふ昼のなぎさに燃ゆる火の澄み透るまのいろの寂しさ 大正4年

雨はれしのちの畳のうすじめり今とどまりし汽車立つきこゆ

うつしみは悲しきものか一つ木をひたにさみしく思ひけるかも 大正5年

ひたぶるに暗黒を飛ぶ蠅ひとつ障子にあたる音ぞきこゆる

かわききりたる直土に氷に凝るひとむら雪ををさなごも見よ  大正6年

さむざむとしぐれ来にけり朝鮮に近き空よりしぐれ来ぬらむ