眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌を読む会 第10回 釈超空『海やまのあひだ』

釈超空  『海やまのあひだ』読書会
 
〇 参加者の三首選
 
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。 この山道を行きし人あり
耳もとの鳥の羽ぶきに、森深き朝の歩みに、とどめたりけり
草のなか、光りさだまるきんぽうげ。いちじるしもな。花 群れゆらぐ
 
たえまなく ( うれ)すく風に日かげ洩り、はげしきものか、下草のかをり
ふるさとの町を いとふと思はねば、人に知られぬ思ひの かそけさ
 
川霧にもろ枝()したる合歓のうれ 生きてうごめく もののけはひあり
心 ふと ものにたゆたひ、耳こらす。椿の下の暗き水おと
 
ゆき行きて、ひそけさあまる山路かな。ひとりごころは もの言ひにけり
高く来て、音なき霧のうごき見つ。木むらにひびく われのしはぶき
ゆきつきて 道にたふるゝ生き物のかそけき墓は 草つゝみたり
 
沢なかの木地屋の家にゆくわれのひそけき歩みは 誰知らめやも
邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅人の墓
青うみにまかゞやく日や。とほどほし 妣が国べゆ 舟かへるらし
 
麦うらしの声 ひさしくなきつげり。ひとつところの、をぐらくなれり
春山の青葉たけつゝつやめける 日となりながら、昼のさみしさ
糸満(いとまん) ( や )むらに来れば、人はなし。家五つありて、山羊一つなけり 
 
日のかぎり 赤松山の日のさかり 遠峰の間の空のまさ青さ
人ごとのあわただしさよ 闇より立ちうつり行くほこりさみしも
 
この島にわれを見知れる人はあらず やすしと思ふ あゆみのさびしさ
鶏の子のひろき屋庭に出るでゐるが、夕焼けどきを 過ぎてさみしも
 
水のおもの深きうねりの ゆくりなく日を過ぎぬらし。遠びとのかげ
島の井に 水を抱くをとめのころも。その襟細き胸は濡れたり
汽車の灯は、片あかりをり。をぐらき顔うつれる窓に、夜深く対へり
 
この家の針子は いち日笑ひ居り。こがらしゆする障子のなかに


 
〇 感想

   参加者のなかで話し合われた内容を参考にしています。
 
 折口は、大正6年にアララギの同人となったが、翌年には斎藤茂吉からその歌風の「アララギ」風でないことを批判されている。そして、それに反論はせずに、そのまま自分の「たおやめぶり」を認めている。アララギに接近した当初から島木赤彦を敬愛し、その指導を熱心に仰ぎながら、結局はそのもとを去ることになる。もともと折口は主情的な資質であったから、赤彦の方向と合わなかったのは当然かもしれない。今回、三首選であがってきた歌について言えば、ほとんどが大正8年以降の作品である。つまり、折口がアララギに背を向け、独自の歌風を自覚して以降のものばかりだ。やはり、それまでのものとは一線を画した輝きを放っているとしか言えない。
 折口の目指していた短歌とはどういうものだったのか。折口は「短歌表現の本質」などの文章を生涯に何度か書いていており、それは矛盾をはらんだ部分もあり、ひとことにまとめるのは難しい。折口自身も、ジレンマに苦しんでいたように思える。
アララギ同人達が、狭い身めぐりの叙景や境涯に射程をしぼりつつあったときに、孤独な旅を繰り返しながら、古代からの無限とも思える時間を、そして空間の手触りを掴んでいた。それは、彼のもうひとつのフイールドである。その自分の思いの正しさにふさわしい表現を求めて数年間、ひとりで苦闘していたにはちがいない。自分に内向せずに、名も無い人々の暮らしに寄り添って、小動物の生死をとおして、こまやかにそして抒情をおさえずに描写していこうという方向である。それはアララギの写生主義では届きようのない広い世界だったのではないか。しかも、技巧にたよらずに、出来るだけ平易な表現で、人々の暮らしや、この世の生死のありようを、ひとつひとつの命の行く末を見届け、掬い挙げようとしている。

 折口には歌は叙事詩から生まれた抒情詩であるという確信もあった。三十一音という短い形式に民族の原郷への思慕をも刻み込みたいという情熱をも感じる。折口が見ようとした悠久の時間と、山村や海浜、また市井に生きる人々の一瞬の姿とは相反するものではなくて、折口の時間のなかでは永遠ということでは同質であるのだ。
 ここにも、近代短歌の多様性を見ずにはいられない。

〇 参考文献



  1. 自歌自註  明治37年~明治43年    全集26  昭和28年


 


新詩社などへ、近寄ろうとさえも考えなかった。しかも作る歌は暗々裏に新詩社に抵抗していながら新詩社の影響を受けていたのである。國學院を卒業する間際になるまで、おおよそ遊び暮らしていたとみえる。だが、いよいよ卒業する間際になって急に、下谷根岸に毎月行われた根岸短歌会に出たくなった。これは学生生活のしまいということにたいする気持ちと深く関係しているに違いない。当時微々たるものであった「馬酔木」の人々の顔も見ておきたかったのである。卒業試験前と後とに二度会に臨んでいる。そこで、当時健在であった、伊藤左千夫先生をはじめ、茂吉、千樫、等の人々にも出会い、土屋文明さんにも会っている。


 


  1. 海道の抄 その1   大正6年  11月「アララギ」   全集28


 


わたしは、新派と旧派との区別について、考えを話した。言語の古い新しいではない。準備するところの新古でもない。こうした点から見れば、万葉人の精神を伝統的に生かし、その生活力を吸い込もうとするわれわれの努力は、古今を宗とする旧派の人々よりは、古くなければならない筈である。ただ旧派では、絵に現れた所を詠みをふせ、或いは匂わせるというので、絵そのものを描くのが俳句だとした。(略)アララギ一派の代表してゐると見える今の新派は、そうではない。そこから離れて神髄の獲得に入ったのである。語弊はあるがまさに、象徴に入ったのである。


われわれの象徴を決して、従来考えられていたように、一部が記号となって全体を暗示するというようなものではない。われわれの肉が、それに、毫末の感激もなく接している皮膚である。生の全相に密着しておおっている死の刹那である。


切実なる実際生活の芸術的表現、言い換えれば生命波動の純化で、読者に切実な内経験を起こさせることができればよいのであるから、その種類によっては、調子を破って新生命に順応させることもあるのだ。


 


  1.  茂吉への返事   大正7年


 


先達諸家の迷惑に思われるかもしれませんが、アララギ派の既製概念に反した態度になるのも止む得ないことと思います。だから、会員や世間を目安として、歌を作ることは、今の私には到底かなわぬことなのです。


 


田舎人ばかりが力の芸術によることができて、都会人は出来ない相談だとまで、悲観はしていません。曲がりくねった道に苦しみぬいて、力の芸術に達した都会人も、同じく「ますらおぶり」の運動に興ることはできるのです。、要するに「短歌の本質」という方向へ向かいます。私は要するに、対象よりも心にあるのだ、と思います。純化というても、語弊はありますが、ともかく雑駁性を整理する気迫如何によることだと思います。


ここに立ち入っていうと、わたしはあまりに多くの人の歌を読み過ぎました。他人の歌に淫し過ぎました。ために、世間の美学者や、文芸史家や、歌人などの漠然と考えている短歌の本質と大分かけ離れた本質を握っています。そこにりくつとしては「たをやめぶり」をしりぞけることができません。


 


  1. 大正8年3月 アララギ


 


短歌を作る人が、文壇の趨勢に無頓着なことである。流行などは問題にするのは考え物である。けれども、敗残者になってもしかたがない。 歌壇の大衆は何の気なしに唯、惰眠をむさぼっている。そうして欠伸まじりに三十一音連ねている。その歌が文壇的になることを望んでいる。むしのよい骨頂というべきである。


このごろの歌人ほど、敬虔篤実、のふうの欠けた仲間はめづらしい。そのような人々が杯の献酬の間に発する歌が発した秀句・噸作などが、文壇の物好きな六号活字係の注意を引かぬのは知れきったことである


 


⑤「短歌における主観の問題」大正8年4月  アララギ


 


外界を見るごとく、内界の事実を見るのでなくては、真の抒情詩はあらわれない。この意味において、多くの抒情詩は主観味の勝った、叙事詩にすぎないのである。


単なる、感情の漂泊が抒情の極致で、外界の写生が主観と没交渉である、などという迷妄は、主観、客観の素朴な用語例から脱することができないために起こるのである。


 


  1. 「氷魚の時代」  島木赤彦論   大正8年1月アララギ  全集25巻


 


要するに艶消しが大切なのである。艶消しとは言う語があまりに外面的だとすれば、感傷を沈潜することが肝要なのである。この点からすると、赤彦は臆病である。『馬鈴薯の歌』から『切火』にうつると、著しく抒情の分量を減らしている。氷魚期になると、最近まで叙景歌ばかりに肩を入れすぎた傾きがある。 写生道を提唱するようになった赤彦は、写生即観照直感なることを説く第一人者である。その人が物心両面に、等しく同情をもたぬ訳はない。これは赤彦の敬虔な心が、危ない内界に立ち入ることを後回しにして、まず対象に動揺の少ない外界を選んだからであろう。長男 政彦を悼む歌のいまだに出てこぬのも、赤彦の敬虔な臆病のためである。


 


  1. なかま褒めをせぬ証拠に」  大正10年3月 アララギ 全集25巻


 


馬鈴薯の花』にある、げんげ花の咲く夕暮れの田圃の歌などは、アララギに出た当時、密かな模倣さえ、させないで居られぬほど、私の柔軟であった心をゆすりあげた。、こうした心からは『赤光』に出た沢山の裸のままの魂が飛び出したような歌が後から後から雑誌にでても、いっこう驚きが頭を上げることがなかった。その心持ちは今でも続いている。


 ともかく、全てが適当としてみたところで、ことなしのがっしりし趣味に赤彦がとられられているのはよくない。 『切火』になると感激に委任しておくことの不安を感じて、後年の技巧本位にすすむ道筋がみえる。


わが赤彦よ。どうか、老いないでいてくれ。これまでの道程にしても私の心配は捨てても良さそうな気もする。しかし、まだ芭蕉の境地を控えて、多様な生活様式を身一つに抱えているからだである。純一な生活に飛び込むことの赦されない事情をもったこころである。私の懸念するのはそこである。


 


  1. 大正8年10月 「あたらしい論理の開発」アララギ


 


叙景詩であっても、その後ろに沈んでいる抒情の濃い隈取りを離れることができないのが、短歌の先天性である。この抒情的な匂いがどうかすると今でも、相応にものの分かった人でも、優美の幻と思い違えられる。抒情であり、叙景せらるうえに、さらに抒情の重ね写真をするのである。 


 無残な犠牲としていつか果てない大きな人が現れて、叙事の方向へ大きな水はけ口をあけないとは限らぬ。


 


  1. 大正15年7月 「歌の円寂する時」   全集第27


 1 抒情詩であるために、理論をふくむことができない。理論を絶対に含むことができないような詩形がどうして生命をつなぐことができようか


 2 歌人が人間として苦しみをしていなさすぎる。


 3 批評の質が低い


                  「大正短歌史」木俣修


  1. 昭和4年1月講述 「歌および歌物語」 歌の歴史 全集第10巻


 


日本文学の発生を、私は呪詞に据えている。巫女神人の神がかりの中に語る、神の詞なる呪詞である。神がかりの中に発生する物語が、次第に定形を有して来て、終に動かなくなったものが、呪詞なのである。


その中に神の詞が、歴史的意味を持ってくる。一人称で述べたものが、歴史的意味をもってくると、三人称風になってきて、この歴史を平気で述べることになる。これが叙事詩である。


永い叙事詩のなかに抒情的部分が出てくる。抒情の詞は、短い形が根本であろうが、次第に変化複合してくる。半分は昔の話、半分は自分の語りごとをする叙事詩的抒情詩が出来てくる。この叙事詩のなかの抒情部分が、即ち、うたである。後の抒情詩と名づけられるものは、叙事詩なのだ。叙事詩中の抒情部分が分かれて、抒情部分のみを唱える事によって、叙事詩全体の効果を感じてきた。


 


  1. 短歌本質の成立   昭和14年11月   全集10巻


 


家にてもたゆたふ命波の上に浮きてしおればおくか知らずも  大伴旅人 


万葉集 3896


 


若い頃から万葉集を読んでいたが、偶然この歌に達した時の驚きは、大変なものであった。今日おもえば、果たして昔の人がそこまで感じていただろうか。会場の不安な心、思えば家にあるときもそうだったが、旅にでていると、今の心がどうなって行くか見当もつまない。「おくか」とは簡単にいえば、行く末・未来のことだ。


 


うらうらに照れる春日に雲雀あがり心かなしもひとりし思へば  巻19 4292


 


実をいうと、明治大正の短歌は、私が此を発見したころ、まだそこまではいっていなかった。私が20代のころ10年年長の窪田空穂さんがそういう傾向だったといえようか。ほかにはそんな歌はなかったのだ。ただ、そういう歌のよさがわかったのは、歌はそうなければならない、と世間が言い出していたからだ。それまで、人麻呂の一面の大づかみな魂をほうり出した様な歌が本道だと教えられ、そう思っていたのが、そうではない。歌は仄かな心の動きをも捕らえねばならないという歌論がそろそろ始まっていたのである。これは文学における自然主義のいい影響だった。その一方で啄木が出て、できるだけ人生を深く見ようとして、風変わった歌を作りだしたが、一方には、僅かな心の隅々に入って行かねばならぬものだという風潮が高まっていた。それまでの考えからは今の歌などは神経衰弱の歌だと言われることだろう。


 


歌が既に中に持っていた自然描写の態度を、詩が引き出した。長く恋愛などの抒情の薄衣が纏わり付いたような中から、やっと客観描写の態度が出てきた。それは新古今という、華やかな歌の行き詰まりがあって、同時にそれが準備になったのである。


為兼


沈み果つる入り日の際にあらわれぬ霞める峯のなほ奥の峯  風雅集


波の上にうつる夕陽の影はあれど遠つ小島は色暮れにけり  玉葉


 


為兼の門流が、一時だけ栄えた。それに、伏見院上皇と永福門院。この御二方になると、いかにも安らかだ。作物は安心して、文学として扱えるものにまでなっている。此所で、凡そ、日本の歌が伏見院・永福門院の音二方を中心とする玉葉と後の風雅との二集でその最高方に上り詰めたと考えて良い。すくなくとも、明治から大正までの歌の達した所も、本道になったものは、言わず語らずのうちに、玉葉・風雅の境地に来ているといえよう。


 


  1. 千樫追善記  昭和4年9月 「改造」


 


アララギ」同人の中、私の最初に親しみを感じたのは、千樫の作物であった。 千樫には、早期から晩年に到る作品を通じて、誰にでも味わい得る、ある普遍なものがあった事である。「若さ」「みずみずしさ」を感じさせ「潤い」「人なつこさ」や「すなおさ」とも言うべき「善良」の発露があった。そうしてそれが誰よりも、抒情気分に満ちた調子と発想を引き出している。


気分と、生活と、題材と、感受性とに異態を示した茂吉さんのほうが啄木時代を継いでしまうて、千樫は遅れた形であった。一つは、茂吉さんの世間的地位を批評に持ち込んだ傾きもみえる。白秋さんの華やかで白く澄んだ境地がもてはやされたのも、異風ごのみの時代になったからである。