眠らない島

短歌とあそぶ

大辻隆弘講演集

 
大辻隆弘講演集は刺激的である。収録されている内容は、今までに実際リアルタイムで聴いたものや、パピエシアンに何年間か連載されていたのを読んで知っていたものもある。しかしこうして一巻にまとめられると、大辻隆弘のなしてきた業績の厚みをあらためて知り、圧倒されてしまった。どの章も、丹念な資料によって裏付けされた内容であり、構成もそれぞれに推理小説を読むような謎解きが仕掛けてあり、特に「斎藤茂吉の作歌法」など思わずいっきに読み進めてしまう。
 
 さて、この度、講演集という形で再会し、もっとも胸を衝かれたのは「柴生田稔の論争」である。これも、以前、パピエシアン誌上で読んだ覚えがあるのだが、確実ではなない。講演集はコンパクトで読みやすく、助かった。
 
大辻はアララギ派歌人であった柴田生稔の昭和10年ころから、終戦までの思想的変遷を「アララギ」誌上に掲載された短歌から丹念に辿っている。そこには、ひとりの知識人が政治的な極限状況において、どのように「内面の自由」を守ろうとしたか、その苦闘の軌跡を浮き彫りにしている。国が滅びるという時代に直面し、誠実に生きるということが、どういう苦しみをもたらすことか、それが、そとから見ればどんなに矛盾していようと、絶対的な孤独のなかで選び取られた最も真実な生き方であったことには違いない。大辻はそこにふかい同情の念をもって綴っている。
 
 その柴生田稔が、戦後に登場した近藤芳美からの批判に答える文章が紹介されている。
 
今日我々は激しい「政治」の渦の中にゐる。これは近藤君の言ふ通りだ。しかしその今日でも「如何にして日を暮らすべきか」と病床に絶叫している人間はやはりいるはずだ。さういう病人が一房の藤の花を命とするがる心を、「愚劣」と評することは許されないであろう。
    柴生田稔「政治と歌―近藤芳美君に」 アララギ」昭・24・8
 
 
文学者も成程「政治」にしばられている。「文学」は結局「政治」を離れては成立しない。しかし。その制作の心理活動だけは絶対「自由」でなければ、傍若無人でなければ、そもそも文学にはならない。  (同左)
 
 これらの、柴生田稔の批判文から大辻は次のように考察を進めている。
 
ここには政治と自由の二律背反があります。こいう考えを取るかぎり、政治と文学は両立不可能になってきます。そこには二つの選択肢があるでしょう。
  1.  自分の内心の自由を制限してでも、政治的プロパガンダというものに身をささげてい        く。そういう、政治に文学を従属させるという選択肢がひとつです。
 
  1. 内心の自由をまもろうとすると、文学はなるべく政治とコミットしないようにせざるを得ない。
 
そういう痛みをよく知っている彼からすれば、政治と文学の関係は、傍観が許されるほど甘くはない。本当に政治が大事というのなら、内心の自由を捨てないことには中途半端に終わってしまう。
 
続いて、柴生田稔が戦後に選びとった、政治からは一切離れた潔い生き方を紹介している。この問題は、敗戦後、短歌だけでなく、戦後文学全体を通して、「戦争責任論」「政治と文学」そして「主体性論争」等さまざまな論争に発展し、知識人、文学者、芸術家を巻き込みつつ、果たして文学の主体性は可能なのか、という問いに継続されていったと記憶している。
 
現代の短歌の状況も、あいかわらずこの問題からゆさぶりをかけられている。短歌が政治的なメッセージを伝える手段になってしまわないかという危惧を抱くことも多い。短歌に大きなテーマを持ち込むことで再び、二者択一の息苦しい状況を自ら作り出しはしないだろうか。なお混迷は深く、答えはかんたんには見つかりそうにはない。

 柴生田稔の苦しみと怒りが、ありありと身にせまるような大辻の文章を読み、この問題がなお現実的であり、考え続けねばならない切実な課題であることをあらためて認識した。