兵庫県歌人クラブ合同批評会 岩尾淳子「岸」
去る5月19日(土)に、兵庫県歌人クラブ主催によって、岩尾淳子「岸」、伊藤敦子「蝶道」の合同批評会が行われた。司会は尾崎まゆみ。「岸」のレポーターは小黒世茂、「蝶道」のレポーターは黒崎由紀子。それぞれふたつの歌集についてコメントを行った。
ここでは前半の「岸」のレポートと、それを受けての会場発言を手短にまとめた。省略しているのでニュアンスが異なる箇所があるがご容赦ください。
【レポーターの基調発表】
★レポーター その1
〇 歌集からの印象
物(詠む素材)は形を淡く保ちながら外界とやわらかく溶けあっている。
作った感じ、嘘っぽい感じ、奇をてらった感じはなく、静かに詠いお さめる作風だ。
〇 作品からの印象
透明でたおやかで静けさを保っている。しかしその世界はあたたかく、読者の心を見えないテグス糸のようにすんすんと巻末まで導いてくれた。
例えば、あとがきの東須磨界隈の「芳ばしい油の匂い」の記憶にみちびかれて話しが展開してゆくところ、「中国名詩選」とみどりの雨、とろんと見える須磨の海、父母が白菜みたいに溶けてゆくなど、淡いなかから実感がたちあがってきて、外界と溶け合い、読者の身体にも溶け合って響いてくる。
〇 作品に即しての鑑賞
校舎から小さく見える朝の海からっぽの男の子たち、おはよう
巻頭の歌。校舎から見える海を遠景に、近景にはくったくのない男子生徒たち。その男の子たちを「からっぽ」と見ているのが不思議な印象だ。男の子が海から照射される光をまとっているような映像を思わせた。
朝とからっぽがひびいて、まだ幼さがのこっている感じ。
葦分けて水ゆくように制服の列にましろき紙ゆきわたる
教室で着席した生徒たちによって順にプリントが一枚ずつ配布されてゆく場面。葦のもつ力強さと、さらさら音を立てて机の高さで移動してゆくましろき紙の、垂直と水平の構図がしっかりしている。「ましろき紙」 の清らかさ。それを見ている作者の澄んだ気持ちも伝わって、「葦分けて水ゆくように 」、には神聖な教育の場がおしつけでなく感受されます。現実を異化させて、しかもその技術をみせないみごとな作品だと思う。
「中国名詩選」の中ほど都を離れゆく友とながめるみどりの雨よ
中学生の国語の教科書にもでてくる漢詩。「元二 ( げんじ )の安西 ( あんせい )に使ひするを送る」王維 ( おうい )の、「渭 ( ゐ )城 ( じよう )の朝 ( てう )雨 ( う )軽塵 ( けいぢん )を浥 ( うるほ )し客舎 ( かくしや )青々 ( せいせい )柳 ( りよう )色 ( しよく )新たなり」がもとになっている。この次が「君に勧 ( すす )む。更に尽 ( つ )くせ一杯の酒」となる。「みどりの雨よ」 が、漢詩をしらなくても柳を連想させる。このあたりからも、作者の持つブレない詩ごころが受けとれる。
死んだのですねどうやって死んだのですか脳とか肺とか声とかは
師の挽歌の一連。歌集全体の淡いイメージのなかで、「米口實」の名前がリアル。表現には直喩があるので、抑制された悲しみとなっていますが、その分、哀切のどうしようもなさがたちあがる。
死に受け入れがたいたどたどしさに、欠落感や臨場感をともなう。脳や肺や声 ( ・ )
うつむいて胸の釦を嵌めてゆく身体がなければもういない人
師の死を、自分自身の身体を通して認識する。上句の意識から下句の認識に変化する心の移りを詠む。身体が消えて、着衣がのこされるような不思議な欠落感。このような歌を詠むことで、作者自身が「心」という正体のわからないものの働きを、目の当たりにしたのではなかっただろうか。つまり、岩尾さんにとって歌を詠むことのひとつには、「自らの意識・認識」という不可思議な未開の平野に分け入ろうとしたものではなかったのだろうか。
踊り場にとろんと見える須磨の海ここが一番あかるいところ
はすかいにプラトンを読む青年のざわっと拡げてゆく夏の枝
電車から降りたわたしを坐らせる海にいちばん近い木の椅子
日に焼けてすこし汚れた酒蔵のけっこう多い浜の町ゆく
レジ奥に猫抱いている奥さんに四合瓶をつつんでもらう
物の輪郭が必要最小限にまで省略され、空間と溶けあった描き方をしている。描写や色彩の技術の確かさを表面には見せず、現実にもとづきながらも異なる感覚的な空間世界を描きだしている。
痛がる兵、踊り場、夏の枝、酒蔵、四合瓶など、イメージの凝縮としてのリアルが空間にとけあっている。プラトンは古代ギリシアの哲学者で、青年の像とむすびあう。ざわっと拡げてゆく次に目の前の景、「夏の枝」に着地させるところがいい。
新しい小児科医院は夕やみにスープのような灯りをこぼす
夕やみにスープのような灯り、こぼす、の表現には、あたたかくてはかないような感じがする。まずそこに意識がいって、新しい小児科医院の灯りだったことを認識している。力のない小さなものに対する作者の心寄せなども読みとれる。
…以下省略
〇最後に
速く流れる時間のなかで人間存在の輪郭が淡い。この淡さは都市生活者のリアルかと思う。
★レポーター その2
風を見送るような姿勢を感じる
沈黙といっしょに言葉があるとき力を持つ。ささいなことを詩に昇華している。
全体に喪失の美学がある。
校舎から小さく見える朝の海空っぽの男の子たち、おはよう
教師の歌は声にしない思いを拾ってゆく
夕ぐれて野球部員の均しゆく土より冬の背筋が浮かぶ
硬質の詩がある。
うつむいて胸の釦を嵌めてゆく身体がなければもういない人
かなしみに余白があればやわらかな陽に干されたるま冬の布団
絵に絵を重ねるなかに精神性が生まれている。
さみしさのほかには隠しごとののない家族よ白粥ふきこぼれたり
さみしさが一番わかってほしいという思い
さくさくとまだ寒くなる風の日の向こうの岸に届いている橋
安堵感とともに、私には届かない何かがあると感じている。
【司会から】
イメージを比喩にする方法が随所にみられる。具体から抽象へとび、また抽象から具体を引き出してゆく比喩の往還がある。
カステラの薄紙剥がす昼下がり多幸感ってこんな感じか
輪廻してゆく人たちが乗り合えるバスに小さな運賃の箱
記憶こそ悲しむ力、いくたびも薪をくべて越してきた冬
タイトルになっている歌
岸、それは祖母の名だったあてのなき旅の途中の舟を寄せゆく
祖母への心寄せがあり、「岸」というタイトルとよくマッチしている。
もう諦めようよこの世に来てしまいたる赤子は泣きやまずけり
生れたことを諦めるという、命の捉え方が独特。
全体にこまやかなもの、目に見えているものの後ろに本質を見ている。
【会場発言から】
1
潮風に扉はあってきらきらと干潟のむこうへ開かれてゆく
シュールレアリズムの絵画のよう。はるかなものへの思いに軽い認識が載せられている
いつかあの岬へ行こうと君はまた思い出みたいにいつかと告げる
時間の感覚を反転している現実を縦横に見ている
2 言葉の使い方が気になる。ここというところで文語を使い、引き締めているが、口語と文語が混ざるのはどうか。
3
絡みつく猫を日暮れに押しのけて立ちたるままに冷酒をそそぐ
ざっくり詠ったユーモアもあり、歌集に奥深さを作っている。
4 読んでいて解放させられるカタルシスがある。
5 歌集にルビがひとつもない。現実をシンプルに描いている。
線が細く、しなやかな感性で完成された歌集。
燃えがらのような町から友らみな獣のように遠く去りけり
この歌は比喩が二つ重なっている。過剰すぎないか。
5 写実的な歌もある。写実をとりいれながら、インパクトのある表現を入れている。
定食を囲んで話すほんとうの笑顔でいようお醤油かけて
あなたとの仮の宿りはいつまでか秋の野辺なるニトリへゆかな
はかない、いつかなくなるという思いを口語と文語をとりいれた文体で生かしている。また、随所にはめ込まれた副詞が生きている。
ほんのりと火星が寄せてくる夕べちりめんじゃこをサラダに降らす
6 「あかるい」という言葉が多い。歌集のトーンがほのぼのと明るい。
「お醤油」「お茶碗」など手ざわりのある表現が使われている。
呼びかけも目に付いた。