眠らない島

短歌とあそぶ

近代短歌を読む会 第9回 前田夕暮『水源地帯』

前田夕暮 『水源地帯』を読む
 
〇参加者の三首選
 
うしろにずりさがる地面の衝動から、ふわりと離陸する、午前の日の影
自然がずんずん体のなかを通過するーー山、山、山
虹、虹。眼前数メートルの距離に迫って、窓硝子をすれすれにとぶ虹!
 
レンズのなかの明るい満月の世界でもないてゐるえんまこほろぎ
ずんずん船は進むーー海草の群れは静かな暴風を感じる
私の体から細い銀線を引き出しているのだ、此ルイマチス
 
足もとのバケツの底にゐる青蛙よ、なんといふ親しさだ、おまへは
水底に渦巻く虹のやうな紅鮭、いきなりそのなかに私を放流する
ひとりぼろタクシーのなかで、へし折れたやうな街の後ずさるのを感じた
 
こんな幸せな単純な世界がここにある。木に頬白がないてゐる
生きてゐるということが次第に寂しくなる。そして、時たま火の燃える
青石のしつとりとした安定感に抱かれてゐるこの気持ちはよい
 
赤く湿疹した都会の皮膚にゐて、ひたすら繁殖しやうとするもの
生きてゐてほんとよかつた、わたくしは燃える陽を体に感じた
自分の手と手を固く握りしめてはつきりと自分の存在を知る冬!
 
あけつぱなしの手は寂しくてならぬ。青空よ、沁み込め
夏らしいしめりをふくんで、あさあさと燕麦の出穂をわたる朝風
どろどろな大阪の空をとびながら、私は新しい現実を感じた
 
 
〇感想
 
前田夕暮については以前、第一歌集をとりあげた。明治43年はまさに若手の新進歌人達が新派短歌を確立し、近代短歌の誕生の年とも言える。大正期に入り、前田夕暮歌人として迷走を始めたように見える。これは、夕暮のみに限らず、北原白秋らにも当てはまるようだ。斎藤茂吉、島木赤彦の率いるアララギ派の圧倒的な存在への閉塞感が彼らを短歌から遠ざけたこともあろうが、どちらかというとこの時期の近代小説や近代詩の輝かしさが短歌にはおさまりきれない抒情や思想をかき立てたようにも思える。

夕暮は大正に入り、雑誌「詩歌」を発刊し、近代口語自由詩を完成させる萩原朔太郎ら近代詩人たちと盛んに交友してゆく。今回取り上げた、「水源地帯」の序文に10年以上の長い間、歌集を出さなかったのは、時代に即していないのではないかという懸念があったと述べている。翻せば、この口語自由律の歌集は、夕暮にとっては近代短歌を革新しようという強い意志そのものである。今回、歌集を読み、レポートされた歌を検討しながら、その発想の新しさ、新鮮な感覚、そして緊張感あふれる文体に魅了されてしまった。
 大正後期から昭和初期にかけて、都市文化は成熟期を迎え、それにともない閉塞した集団組織化した短歌界への批判の嵐は凄まじい。口語自由律への流れは、短歌に時代の自由な息吹を吹き込もうとする果敢な挑戦であったろう。
 
自由律への動きはプロレタリア文学派に対峙するように芸術派のなかで様々に試行されている。それらは、文字通り「自由」をもとめる芸術運動そのものだったように見える。「近代短歌」とは、そもそも何かという問いを抱えて始めた読書会であるが、「近代短歌」とは近代という時代とともに、現実と格闘しつつ歌人達が人生を賭けて革新し続けてきたエネルギーそのものの形式とも言えそうだ。あまりにも複合的である。現代短歌の萌芽はすでにこの時期にあるし、そもそも線引きそのものに意味があるのかとも思う。
 
それにしても、自由律によって歴史に残った歌人は「水源地帯」の夕暮のほか誰がいたろう。夕暮さえも「自由律」から撤退してゆく。ここに定型詩の本質も見定めねばならない。