眠らない島

短歌とあそぶ

林和清 『去年マリエンバードで』


さくらばなひとつびとつは蔵でありむかしのひとの名前を ( しま )ふ  
 
林和清の歌を読んでいると、さりげなく表現が抑えられて詠まれていても、そうであるほど内心から不安が立ち上がってくる。それは暗い高揚感とでもいうか。自分の中にある邪悪なものをふいに引き出されてしまったときの、恐怖と異様な快感。内奥にひそむ薄い狂気といえば陳腐か。しかし、あきらかにこの歌集には歴史性を孕んだ狂気の欠片がさまざまなバリエーションをまとって繰り返し描写されている。狂気と滅びとは親和性が高い。その滅びに林は見果てぬ美を見ているような気がする。そして、林のテクニカルな歌の中ではそれは本当に美しい。
巻頭に挙げた歌はそうした林の内圧の高い内面世界の上澄みを掬い取ったような澄んだ響きがある。「蔵」の比喩も美しいし、「むかしのひとの名前」という平易な表現に返って、さくらの花弁が無尽に死んでいった人々の屍を映しているようで痛ましい。
 
ほんの少し病むひとをまた後ろ手に鎖して家を出る冬の晴れ    
 
この歌は第三部のなかに置かれた一首。24時間を時系列に詠み込んだ連作で、動きとスピード感があって読ませられる。ところでこの歌の「ほんの少し病むひと」は妻として登場する人物らしい。しかし、この歌を何度か読むうちに、これは作者自身のことではないかと思えてくる。あるいは、この世に生きている人達すべてかもしれない。みんな「ほんの少し」病んでいる心を抱えながら、それを毎朝、家において外の世界へ出てゆく。そうやって、なんとか耐えながら働き、食べ、疲れてまた、病んだ心に返ってくる。人間とは狂気をほんの少し病みながら生きざるを得ない。そこに悲劇があり、千年前も現代もそれはたいして変わらない。
 
冷えた手だと思ふすこし濡れた手だと思ふ八瀬童子の手指を   
あれほどの憎悪をどこから沸かせたか日本の家はめらめら燃える  
殺人のニュースがひととき絶えてゐたそんなことも記憶の瓦礫のひとつ  
 
一首目、八瀬童子とは、天皇家の葬儀の際、棺を扱うことの許されている特殊な集団らしい。作者の想像力はその末端の手指にゆく。棺に触れる手指。聖なる存在であるために必然的に求める陰惨さ。ここには日本社会が営々と作り上げた狂気の構造が見え隠れする。
二首目、これは分かりやすい歌だが、関心は善悪を越えた本源的な「憎悪」に向けられる。それを、下句では視覚的にどちらかというと楽しげにさえ見せている。
三首目は、東北大震災のときの記憶。ここにも、世の中の不穏な高揚感を敏感にかぎとる感性が働いている。三首とも、独特の倫理観があり、善悪を越えた、悪に対して厳粛な思いにさせてしまう力を感じる。
 
関西のひかがみのやうな街を見る近鉄の滅茶ぼろい駅出て 
ゆるいアイスに匙挿しながらあの人も死んでよかつたなどと言ふ口唇 ( くち ) 
 
死ぬ人の歌のはうが身に刺さるとうからとうから秋の実が落つ     
 
林の歌は怖い、それはおそらく題材のせいではない。ここに挙げた三首はそれぞれ文体に工夫がある。一首目、上句の比喩が本質をついているうえに、下句では「滅茶ぼろい」と口語を挟むことでより生々しく情景が立ち上がる。言いさしで終わるのも不安定で、浮遊感が漂う。二首目、これも台詞そのものよりも「ゆるいアイス」や「という口唇」に感覚を集中させることで、場面が具体的になり、その場のよからぬ雰囲気が流れ出すような不穏さがある。
三首目は、上句の述懐を下句で受け、言葉の毒を不可思議なオノマトペによって脱力させてしまう。するとかえって耳について離れないような音となっていつまでも響いてしまう。
こうして、林は「怖さ」に実在感を捻じ込んでゆく周到な修辞を歌集全体で駆使している。まるで闇の錬金術師のようだ。
 
そんな歌に身震いしながら読んでいると、細くてやさしい光のような歌にも出会う。そして、うっとりさせられる。まったくこの手の込んだ歌集は、読み終わるまで手から離すことをさせてくれない。
 
ペン立てに見慣れぬ春の枝がありいまだ書かれぬ文字をいざなふ