眠らない島

短歌とあそぶ

やすたけまり 『 みちくさフィールドノート  むしの巻 』

そういう日なんだろうけどコミスジと行くさきざきの道で出会った
 
 
やすたけまりの歌を読んでいると、いつのまにか不思議な空間に連れていかれる。そこは、日常の世界からはそんなに遠くないのに、普段は見たり、触れたりすることができない世界。日常性の湿り気を拭い去った世界とでもいえばいいのか。おそらく、憂鬱な自意識に縛られている目には見えないのかもしれない。
 
カメラのレンズを替えると見えてくる。とても小さくて豊かな生き物たちが生まれたり、羽ばたいたり、おしっこをしている。そこでは、作者という「わたし」も何かに擬態して、視界からふいに行方不明になってしまう。読む方は一瞬、取り残されたかと思うけど、そうでもない。やさしい呪文を掛けられて、子供のように身がかるくなっている。あとは、歌を楽しめばいいだけだ。そこにはとてもみずみずしくて、詩情あふれる風景がひろがっている。
 
巻頭に挙げた歌は、この作者の世界の見せ方がよくわかる歌のように思う。「そういう日なんだろうけど」の「そういう日」は現実性から少しとおい日。散文的な時間を生きている私には決して訪れない、そうであるから「コミスジ」と行くさきざきで出会うこともない。しかし、やすたけまりは、日常の時間にありながら、通俗性をいともたやすく脱ぎ捨てることをする。そうすることで、言葉があこがれのように浮力をもつことができているようだ。
 
ミツバチの空中静止(いまここは海抜何メートルなんだろう)
はばたきは痛いことかもしれなくて枝のすきまのナガサキアゲハ   
山崎もそのひとつですひらくドアにアオマツムシ、という夜の駅
 
 一首目、パーレンの中の台詞は蜜蜂のものだろうか。羽ばたいている蜜蜂の姿から、海へといきなり飛んでしまう想像力がなんとも楽しい。思考の回路がここちよく脱臼されてくらりとする。どの土地にでもある海抜であるが、日常の枠をすっと外された言葉が自由だ。
二首目、上句にはっとする。「はばたき」は不用意に歌の言葉でも使いがちだが、ここではその意味をもういちど問いかけている。人である私たちは「羽ばたき」は知らない。本当はどうなのか。生きることの赤裸々な姿をクリアに魅せられたようで新鮮な驚きがある。
三首目、やすたけまりの歌に登場する生き物たちは人間の生活圏と重なり合っている。あわただしく活動している人間界と、自然の時間をありのままに生きている虫たち。でもそれは、対峙するのではなくて、作者のしなやかな感覚をとおしてやさしく共存している。そして私たちが生きている世界の豊かさを教えてくれる。夜の電車のドアが開くたびに聞こえる虫の声。そのかすかな声に耳を寄せる心。その心と虫の声と「山崎」という駅名がよく響き合って、童話のように美しいシーンである。
 
クレーンがすこしうつむくその先に十二月生まれの駅がある    
つくりかけの高速道路はひとやすみひとやすみあの雲のとなりで
 
こうしたみずみずしい生命感にあふれた感性にひかかるのは、小動物ばかりではない。都会やその近郊にあふれている無機物もいのちを与えられる。
 
一首目、クレーンを捉えた視線がやさしい。その先にあるのは出来立ての駅なのか。あわい冬の空があり、広がりがあり、クレーンも、駅もどこか生き物のように詠み込まれていて、あざやかな詩情がある。
二首目、こちらは高速道路。工事中の高速道路が、雲と組み合わされることでなんとものんびりと楽しい風景が立ち現れる。そして、見慣れた殺伐とした空間がこんなにも姿を変えて豊かな風景に生まれ変わってしまうことに、感動すら覚える。
やすたけまりの歌を読んでいると自在に日常から解き放ってくれる。そんな言葉が歌にあってもいいと思う。また、自分の歌もそうでありたいと思う。
 
そんないい夢じゃなくても夢のぶんからだをかるくしてねむるんだ