眠らない島

短歌とあそぶ

明治43年4月の啄木 (現代歌人集会春季大会報告 その2)

● 明治43年4月から5月の短歌
 
瓦斯の火を半時ばかりながめたり怒り少しく和げるかな      4月 7日
いろいろの壜がつめたく列びたる酒場の棚の白き塵かな      4月 7日
死ね死ねと己を怒りもだしたる心の底の暗き空しさ        4月24日
何やらむ穏やかなら目付きして鶴嘴を打つ群を見ている      4月24日
 ひとしきり静かになれる夕暮れの厨にのこるハムのにほひかな   5月 5日
京橋の滝山町の新聞社灯ともる頃の急がしさかな          5月 5日 
  
 
1 自由への希求と自己失望
 
42年12月に「食らふべき詩」を発表し、生活と文学との統一を唱えた啄木は、必死でそれまで一家離散状態だった家庭の再建に取り組む。そしてようやく手に入れかけた「安定した生活」を前にして、自分を失ってしまうという危機感を烈しく抱く。仕事に追われる生活によって文壇や歌壇からは遠のき、孤立感や閉塞感をますます深めていくことになる。
 
しかし、現実に面相接して、そのに一切の人間の可能性を忘却する人も哀れな人でなければなりません。(1/9木村宛)
 
啄木にとって文学は、当初から自己の一回性を超えて永遠性につながることを意味しており、芸術至上主義的傾向は捨てることは困難だった。この年明けからも、啄木は熱心に小説創作「道」を続けている。三月にも創作ノートには新しい小説の構想が書かれている。
 
3月13日 宮崎宛の書簡
 
 去年の秋の末に打撃を受けてから僕の思想は急激に変化した。今我等の人生に置いて生活を真に統一せんとすると、其の結果は却って生活の破綻になるこということを発見した。この発見は実行者としての僕のためには致命傷の一つでなければならなかった。そして僕は今また、変わりかけている。自分自身意識しての二重生活だ。自己一人の生活と家族ないし社交関係に於ける問題とを常に意識してかかるのだ。
 
年末に父を迎え、収入の増額が必要だった。前年の十一月からは二葉亭四迷全集の校正や夜勤を引き受け仕事を増やしている。仕事を増やすことは、創作の時間をけずることであり、啄木はそのジレンマに苦しむ。
 
4月5日には「硝子窓」を執筆し、この時期の危機的な内面をつぶさに自己分析している。
 
  私はもう、益のない自己の解剖と批評にはつくづくと飽きてしまった。それ だけ私は実際上の問題に頭を下げてしまった。知識或る人たちの歩いている道 から一人離れてしまった。私はこれから「どうしたらおもしろく成るだろう」 ということを真面目に考えてみたいと思う。 (「硝子窓」より)
 
とし、文学の空虚さを改めて認識しようとする、
自身を文学からの劣敗者としてとらえ、文学への幻滅を深くする。かといって文学への誘惑から逃れきれない自身に対しての自己失望に引き裂かれる。
 文学は啄木にとって、自己実現の方法であり、精神的な自由を与えてくれる世界であった。文学的生活をゆるされない状況で、文学を断念しようとして啄木の自己主張の欲求は対象を失って苦しむ。激しい自己への失望に切り裂かれてしまう。この時期、啄木は方向を失った自己主張への欲求を抱え、激しい飢餓感と閉塞感に苦しめられる。このとき、啄木は生活の実相をも透徹した視線で見定めている。そのとき恩寵のように生活の断面から、匂いや肌触りを含んだうるおいを持って美しい抒情が短歌に表出してくる。
 
 
 2 乾いた視線
 
啄木は破綻しようとする内面を保つために意識的に自己と、外界とに距離を置こうとする。「二重生活」として「自己一人の問題と家族関係ないし社交関係における問題とを常に区別してかかる」と記している。それを「冷たい心」(「我等一団と彼」)としている。覚めた目で外界をみることで、かろうじて、崩壊しそうな自己を懸命に守ろうとする。
 
  6月13日書簡  岩崎正宛
 一人になりたいと思っている男が細君に逃げられて泣いた。もしも、一人になりたいという希望が我々の悲しい希望であるならば、同時に、この事実も又我々の遭遇する最も悲しい事実の一つではあるまいか?
 
僕は今見つめている。僕はもう僕の運命なり、境遇なり、社会の状態なり、乃至は僕の正確なりに対して反抗する気分を無くした、長い間の戦いであったが、まだ勝敗の付かないうちに無条件で撤兵してしまった。楚々いて今、検事のような冷ややかな目でもって運命を熟視している。
 
単に誠実に告白するのではなく、さめた視線で見えてくる自己内部の矛盾や生活の相をすくいとる啄木短歌の特質が生まれようとしている。
その緊張感のある思索の過程で、啄木は自己および外界に対する乾いた感覚、非情な意識を獲得してゆく。生活の深層へ透徹するような視線。生活に埋没しきれない明晰な意識が、啄木短歌の特質となり、近代短歌にある種の抒情の変革をもたらしている。