眠らない島

短歌とあそぶ

尾崎まゆみ 『レダの靴を履いて』

レダの靴を履いて」は2010年7月から、2012年6月までほぼ2年間をかけて筆者がブログに綴った塚本邦雄の歌についての鑑賞である。ひとつひとつのコラムにはみずみずしく季節が流れ、筆者の暮らしの時間や空間がほんのりと香っている。なんともゆるくて心地の良いおしゃべりを聞いているように読んでしまう。とはいっても読後感は相当に濃厚である。読み終わると、それまでの重い塚本邦雄のイメージがすっかりかわって、軽やかな塚本像が立ち上がる。それは鮮やかな体験だ。そしてなによりもこの一冊が塚本邦雄を読む楽しさを教えてくれることである。それはひいては短歌を読むことの楽しさそのものであろうか。

来年は塚本邦雄生誕一〇〇年、それにあわせて総合誌に塚本に関する特集が目立つ。そして多くの歌人たちは塚本の歌を政治的な面から解釈し、その手法もその主題との関りで記述されることが多いように思う。ところがこの本を読むと塚本の歌がそういう定式からはずれ、ふっと重力が解かれたような自由さを感じる。たとえば、冒頭に引かれている歌。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 『水葬物語』

前衛短歌の狼煙のように掲げられたこの歌は、政治的な読み方や、また短歌革新の手法からもさまざまに論じられているが、尾崎はこの歌を鑑賞するのにまずシャガールの幻想性とつなげて語り始める。

あかるくて物悲しい赤と青に彩られた幻想的な絵の底に流れる感情と、歌の底に流れている感情は地下でつながっている。そんな気がしてしかたがないのです。

こう語りかけられることで歌は確かにシャガールの物悲しさと明るさに彩られた絵と共鳴してひとりでにピアノが鳴りだすようにも思えてくる。ここに展開されてゆくのは、歌を想像力を動かして自由に読むことの楽しさであろう。難解さで知られる塚本の歌を、実に楽しげに読み解き、あるいは、読み解くことをあえて放棄することで、その世界にふわりと遊ぶことをやわらかな語り口で教えてくれる。まるで読むものひとりひとりに語り掛けるように。それでいて塚本の歌の本質をまるごと掴み出して指示する語りのリズム感が読む者を魅了する力をもっている。
たとえば、こんな箇所を引こう。

短歌は物事を正確に伝えるためにあるのではなく、エキスを絞り出し、真実を掬い取るためにある。という塚本邦雄の考え方のもっとも尖った部分に、この歌はあります。私は見て楽しみ、読んで楽しみ、その言葉たちのもたらすイメージとともに楽しんでいます。

一首の短歌はそのままでも十分楽しめますが、魅力のあるフレーズは、さまざまな人に愛され、本歌として使われて、伝えられてゆくのだなと思うと、楽しいですね。

こういう不思議系の歌の、正しい読み方はないので、ひとりでワインでも飲みながら、言葉たちが生み出す複雑な雰囲気をゆっくりと味わいたいですね。

 しなやかでしたたかな語りの背景にはこの筆者がふかく塚本邦雄の懐に入り込み、その美の本質に肉薄してきたことがあるだろう。そしてそれは塚本の歌を愛し、楽しみ、その世界に遊ぶ何よりも幸福な時間であったことだろう。この一冊はそのように歌に関わる至福を伝えているように思う。