眠らない島

短歌とあそぶ

川野里子  『七十年の孤独』

 
 戦後七十年と言われた一年が終わろうとしている。長い一年たった。世界はますます混迷を深めている。どんなことも語りづらかった秋の終わり、川野里子の『七十年の孤独 戦後短歌からの問い』に出会えたのは閉塞感の強まるなかでは、ある種の清涼感を与えられた体験だった。
 川野は序文でこう記している。
 
 戦後の焦土は言葉と文化の廃墟でもあった。しかしそこからたちあがろうとする少数の表現者たちは、この廃墟こそを自らの言葉の場として選びなおした。同時に、この詩型を選んだことによって表現者としての責任というべきものを背負うことになった。もう忘れられようとしているこの責任を短歌はなお背負っていると私は感じる。
さらに
 この本は、短歌という小さな詩型を定点として観測した、戦後から今日にいたる「私」と「われわれ」の精神史であれたらと願っている。
 
と結んでいる。川野は現代短歌に必要なものは「文脈」と「批評」だと断言する。「文脈」とは表現の必然性をいうのだろう。川野は取り上げるすべての歌人にたいして、その表現の必然性を徹底的に考察してゆく。そこには短歌は第二芸術と見なされるようなおざなりな文芸ではなくて、正真正銘の文学であるとし、そうでなくてはならぬという強い信念が伺われる。葛原妙子や塚本邦雄を論じるとしても、その表現だけに焦点をあてるのではなく、その表現が生まれる必然を歴史のなかに歌人の根源をさぐってゆく。そしてすぐれた表現者は必ずそうした必然から、普遍性のある表現を獲得していったということを検証するのである。
 
川野の関心が、文語と口語の問題におおく傾くのも、「わたし」がどう変容してきたかということと深く関係する。そして川野の主張がつねに一つの方向性を差していることも、この評論集を見通しのよいものにしている。川野自身、自らの立ち位置を文語に置くことを鮮明にする。それは文語の普遍性、そして時間性に賭けるということであるらしい。こういう立場表明も批評をするものとしてとても誠実な感じがする。
 
終章「未来へ」に収録されている『「虚」の弾力と「リアル」の切実』は特に説得力があった。川野のいう「虚」の力というのが萎縮する現代短歌に風穴をあけ、膨らみをもたせてゆくということを教えられた。 時評とはこのように身をもって時代を論じ、歴史を検証し、表現の未来を考えることだとこの一冊は力強く主張している。
 
 戦後七十年という長い時間のなかで、短歌という詩型がどんな困難に曝され葛藤してきたか、また今どの地点に立っているのか、おぼろげながら確認できた気がする。またこのような、真摯な批評に出会えて襟を正される思いがした。