眠らない島

短歌とあそぶ

近藤かすみ 第二歌集 『花折断層』

むかしより加茂大橋のほとりには廃園ありてひぐらしが啼く   

 近藤かすみの第二歌集『花折断層』の世界は言葉の熱量がほどよく適温であり、心地よく読むものの感情に寄り添ってくる。過剰さが削がれ、押しつけがましい主張やこれみよがしの修辞、あるいは美意識へのこだわりもない。物や景を丁寧に描写しつつ、手触りのある世界を作り上げている。大人の歌集だなあと心底感服してしまった。つつましく抑制された表現が、それはそう簡単ではない熟達した言葉の斡旋の巧さなのだが、歌集全体の品のよさを覆っている。第一歌集からの明らかな飛躍と成熟をまざまざと見る思いがした。
 巻頭の歌は一読してこころに残る歌だった。それは「廃園」というところに気持ちがいくからだろう。過ぎゆく時の流れによって失われるもの、あるいは不在であることへの感応。
それは普通、ネガティブな感情を喚起するが、この作者には「不在」であることポジティブに受け入れる感覚が表れているようにも思える。

耐へきれぬ一粒ありてそののちをなだるるごとく雨降りはじむ   
サルビアの緋色褪せたり昼すぎの馬の居らざる馬小屋のまへ  
くりかへし言はるることは聞きながす耳にふたつの琥珀のかざり  
ヨシカワさんヨシカワヒロシさんと呼ぶ声響く午後二時の廊下に  
金網の下を土鳩はくぐりゆくそこだけ草の少なきところ       

1首目、雨の降りだす間際の気配をよく捉えている。「耐えきれぬ一粒」は落下する瞬間に耐える力を手放している。雨はその力を失ったあとの景ということになろう。何かが消失したこと、そのあとの雨にどこか安堵を感じとる直観が働いている。
2首目、長崎のグラバー邸を訪れた時の一連に差し込まれている一首。馬小屋の前にたちながら、そこにはもう馬がいないことに気持ちがゆく。それをあえて言葉にすることで、馬がいたころの屋敷の暮らしや時代が浮かび上がって動いてくる。しかし、やはり現実は何もない。そこにもう一度思いは立ち戻るしかけだ。「馬の居らざる」という一言ですべてを語っている。そして不在であることに安らぎがある。うまい歌だ。過剰さや意味の厚塗りを避けようとする修練の技。
3首目、これがこの作者の本分かとも思い、思わず目が留まった。繰り返し言われる事は耳障りな事だ。そういう過剰さから身を離して自身の世界を保っている。この作者の歌の作り方とも共通するように思える。
4首目、病院の待合室での出来事か。アナウンスの声に反応している。ヨシカワヒロシと呼ばれている人は、歌人吉川宏志か、あるいは同姓同名の人か。どちらにしても作者の想念に浮かぶ人がいるだけで、本人は不在である。不在でありながら、名前を呼ぶ声があることで、ありありと存在感が立ち上がってくる。
5首目、金網と地面のあいだにわずかなすきまがあるのだろう。そこから鳩が出入りしている。作者の目はその鳩にいくのではなく、わずかな草のへこみにフォーカスする。そこを言語化することで空間があざやかに見えてくる。鳩はもういない。草がすくないところと草の多いところ。その違いが気持ちをほんの一瞬波立たせている。
ささやかな違和感と言えるのかもしれない。そういう落差を手掛かりにしながら世界をこまやかに観察し、くっきりと認識してゆく。歌集中には丁寧な描写の歌が精彩を放ち、読む者のこころを潤してくれる。

落差ある処をしぶく水のあわ鴨川(かも)の流れに白き帯なす       
草の上に手押し車のやうなものうち捨てられて午後の陽だまり   
きまかせに七羽はうごく刻々と水のおもての景かへながら   

 こうした言葉の均整の美しさに目を引かれたが、この歌集でさらに新しく思えるのは目に見えていない世界に思いが飛ぶ歌が少なくないところだ。そこにこの作者の独自の感覚が開いているような気がする。これからの展開がますます楽しみになる。

大根の五センチほどをおろすとき津の国にいまし雪ふりそめむ  
降りるときまた揺れるのだろう縄梯子きれいなままにまた畳まれて  
わが手より清らかならむ他人の手の作りし高菜おにぎりを食む