眠らない島

短歌とあそぶ

玉川裕子  『赤いレトロな焙煎機』


 赤土の遙かなる道バスがゆくパンタナールの風わたるなか   
 
 玉川裕子は『未来』歌友である。短歌を詠む玉川は、同時に珈琲を心から愛してやまない愛好家であった。その珈琲への愛が玉川裕子を単身ブラジルへ渡し、そして堂々としたプロのコーヒー鑑定士にしてしまった。この一冊は歌とエッセイが心地良い間合いで組まれておりその洒脱な文章によって、日常を離れたあかるいおしゃべりに引き込まれてしまう。それは決して軽妙なだけではない、不思議な安堵感をもたらす言葉だ。おそらくは筆者が身を賭して歩んできた強靱な生き方に支えられているせいかもしれない。筆者の好日性の明確な精神によって編まれたこの本はコーヒーに捧げられた愛の歌文であり、またそれを育んできた人々や大自然への賛歌でもある。
 
 冒頭の歌に続くエッセイを引用する。
 
みどりの風が赤土の道をどこまでも渡っていた。赤土の粒子が大気中に吸い上げられて空はかすんでみえるけど、なにものにも切り取られない風景が視界の限り続く。日本をはるか遠くこの大地にいま自分が在るという事実。視座を深くとろうと思う。
 
「視座をふかくとろう」とする玉川の意識はブラジルという広大な大地の風によって解き放たれる。それはなんと幸福なありようだろう。幸福感を歌にするのはなかなか至難の技であるが玉川は全身でそれを言葉に詠むことができる希有な歌人だ。
 
  やわらかに心ほどける七月のひかりの海をわたりゆくとき  
  船積みの朝の袋は六十キロニュークロップが青く匂って   
  朝靄が視界を閉ざすファゼンタのかすかに煙る遠き焼畑   
 
 一首目、「ひかりの海」は単なる比喩ではなく、実体をもってひろがる大海原である。その海を越える喜びがストレートな歌のリズムから伝わってくる。二首目、実際に珈琲豆が船積みされる現場の躍動感がみなぎっている。その現場に立ち会っている筆者の息づかいも労働者の荒い息も、コーヒーの青い匂いとひとつに混じり合い、いきいきとした生命感を伝えている。三首目、広大なコーヒー農園を包む朝の湿った新鮮な空気が匂うように立ちこめている。どの歌も、抽象的な観念から離れて、風通しがよい。特に後の二首は単なる旅行詠とは違ってそこで働き、生活する人々の心に深く入り込もうとしているのがわかる。そういう「深い視座」によって風景は単なるスケッチとはちがって奥行きのある空間を立ち上げている。
 
  空き瓶が冬のひかりに濡れている職をもたないわたしのように  
 
この歌には一行だけのエッセイが続く。
 
  ラムネ色の空き瓶がひかりを( かえ)して濡れていた。淡い抒情が希望に変わる。
 
 玉川にとって、空き瓶のように空疎であるということは、不安や疎外感にはいかずに「希望」そのものに変容する力であることに驚かされる。そうした希望の言葉がゆったりした行間をもって短歌と組んで踊るように伝わってくる。幸福な一冊にあえた事に感謝したい。
 
 
交じりあうことなき海流の孤独おうおうと引きあう意志を持ち