眠らない島

短歌とあそぶ

高柳蕗子  『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』


 「空はともだち」はスリリングな歌論だ。高柳は膨大な短歌のデータベースを扱うことで、歌を解釈することにおいて、歌人の個別性を越えていく方法を編み出す。そして、短歌に登場する語彙に徹底的に拘ることで、言葉に託される叙情の普遍性と限界にせまろうとしている。前書きにこう記している。
 
   言葉は言葉を呼び、歌は歌を呼ぶ。歌立ちは共鳴して同じネタを重ねながら、同時に、新たな展開を求めている。歌人はいつのまにか、短歌という詩型のそのような意志に答えながら歌を詠んでいる。必要な歌がいろんな歌人から噴出してくる。これは短歌の生命活動そのものではないだろうか。
 
  データベースの中の短歌には、(略)大きな無意識の潮流の底知れぬ活気が感じられる。
    本書は、その無心の活動をのぞき見るものだ。
 
考察の視点を明確にすることで、単なる名歌、秀歌の紹介になることを避けて、言葉のもつイメージの歴史を万葉集から現代短歌まで丹念に追いかけてゆく。歌を明晰に鑑賞し、整理整頓し、さらに方向性を探りつつ、その盛衰を明らかにする。それはまるで上質な推理小説を読むような快感を与えられる展開だ。語彙を古代からの歌語である「空」と現代的な「自転車」に絞って展開することも、スマートな論旨の流れをつくることに利いている。
 
ただ、筆者の考察は最終章にきて一段と深まるように思う。ここでは「境界」というキーワードをつかって、言語表現の多様なありかたに迫っている。心情のなかの「境界」が言葉によって越えられてきたという。また「境界」についてさらに綿密な分析を加えることで最近話題になっている、「読み」についても迫ろうとする。
 
   そもそも、現実のいきさつに関係なく、「既存の心情」というものが存在するからだ。それは個々人の心の外側、自他の[境界領域]にあって、みんなで共有している。
 
こう観点を提示することで「読み」の可能性を広げてゆく。ただ次のような慎重さも忘れてはいない。
 
 主体者の生活のなかのいきさつに結びつけなくてもその心情を味わえること、既存の心情に憑依されたのかもしれないがそれでもかまわない、という読み方に耐えること、が重要なのである。
 
論の掉尾にいたって抒情のありかたに迫っていく件は、短歌表現の未来へ新鮮な布石を打っている。このあたりは、もう少し読み込んでみたい。とにかく平明な文章でこれだけの深い考察を提示する筆力に読まされる鋭い歌論書である。