眠らない島

短歌とあそぶ

小谷博泰 『短歌つれづれホームページ』


小谷博泰さんの『短歌つれづれホームページ』を読んだ。これまで、小谷さんのホームページはちらちらと覗いてきた。小谷さんが所属する結社『白珠』が掲げる「知的抒情」という理念に魅力を感じて、方々あたっているうちにこのホームページにたどり着いた。アップされてすぐに閲覧したが、やはりこうして一冊の本になると読みやすい。一九八三年十月号『白珠』本誌に掲載された巻頭の文章を始め、安田青風から安田章生への流れをまとめた文章を一望することができた。
安田章生の「短歌における知的抒情」は昭和二十六年の『白珠』に掲載されていたらしい。その一節を小谷が引いているので、ここに引用させていただく。
 
単なる知性でも単なる抒情でもないもの、抒情と不可分の相関関係において知性が存在し、知性と不可分の相関関係において抒情が存在しているものー 知的抒情こそ、もともと詩というものの本質である、というにとどまらずこんにちの詩がもたねばならない特質であるといわねばならない。
 
アララギの現実主義に対抗する流れをつくったこの理論が、小谷がいうように安田章生の手によって更に実作で深められなかったことが惜しまれる。近年、歌壇の近代短歌帰りは若い層を中心にむしろ強まってきた感じがする。それは、無論、否定することではないが、短歌に「わたし」を求めすぎるあまり、歌にのびやかな世界が失われていくように思われる。
詩はもともと、日常から感性を解き放ってくれるものだと思っていたのだが。
 
  あそこまで歩いて行かう塔が立つかの丘のうへ夕あかり残る
  ああそれでよいではないか生きるとは失ふことだと或いは思ひて
 
のびやかで柔らかな語感のなかに、深い哲学的な思念が刻まれている。今回、小谷が紹介している安田章生の歌に、「知的抒情」の実作を見る思いがした。
 
 また、歌は「わたし」を歌うものとして、明治の正岡子規以降、「万葉集」がそのお手本のように言われてきた。小谷は、万葉集を決して現実主義的な歌集ではないとして、その虚構性を丹念に検証している。藤原鎌足柿本人麻呂の相聞歌を中心にした論考は初めて読む物であり、興奮してしまった。さらに詳しく読みたい論考である。
 
 そのほか、多彩な歌評が掲載されている。小谷の偏らない、細やかに行き届いた歌の読みをゆったりと楽しむことができる。短歌、歌論、日記風エッセイとたっぷりと楽しめる一冊に出会った。