『京大短歌22号』
京大短歌22号を読んだ。今回、「京都歌枕マップ」という企画を注目して読んだ。鴨川から始まって、同志社大学、寺町通り、出町柳、京都駅など、いわゆる名所ばかりでなく、京都で学生生活をおくる若者達にとってなじみの深い地名が歌と一体になって紹介されていて楽しい。全く、京都は若者の街で在り、青春性と深い関連を持っているあこがれの土地である。
序文を牛尾今日子が書いている。
「京都は特別な街だ」から始まって栗木京子の歌を引用しながら次のように結んでいる。
テンプレート的かもしれないけど、実感として強く私たちの心を打つ。地名が具体的に示されていない時でも、別にそんなドラマチックなものでなくても、京都の人の歌集から、ここで生活している私たちにはとても親しみのある空間の広がりを感じることがある。
牛尾が「京都は特別な街だ」というとき、そこには紛れもない歴史性を指示しており、古今にわたる人々の暮らしと時代の物語を風土としての実感が基板になっている。京都のさまざまな地名が歌に詠まれるとき、その歴史や空間を共有してきた人々の共同幻想としての歌枕として成立している。それは言い換えれば、やはり京都という街が育んできた物語といってもあながち誤りではないだろう。紡がれてきた物語と歌の情感が結びつくとき、牛尾がいうように「空間の広がりを感じる」ことは充分納得できるし幸福なことだ。本来、和歌の世界では歌枕とはそうした経緯で成立してきたのだから。
そんなことを思いながら、牛尾今日子の『抒情についてのノート』を熟読した。これは最近話題になっている「読み」の問題を、多くの歌を鑑賞しながら丁寧に考察を進めていて考えさせられるところが多かった。永井や土岐の歌については「現実や象徴化や物語化を経る」手前をそれが手前のまま保たれるように手渡してくれる。」「その陰影の出し方が成功しているかどうか、読みの誘導がうまく行っているかどうかという論点はあ」るはずだと読みの方向に示唆を提唱する。こういう読みのありかたが提案される前提にはやはり、「歌が大きな物語に固定化される」ことへの警戒感があるように思う。
この評論を読み少し考えさせられた。よくいわれるキーワードである「大きな物語」が短歌において何を指しているのかは不明だが、果たして歌から、或いは文学から「物語」を払拭してしまうことが必要なのかと疑問にも思う。ましてや、詩においては「象徴化」こそが生命ではなかったかとも思う。歌が感情を伝えることだけを目的にしてはつまらないけど、牛尾が引用しているように抒情の辞書的な意味は〈自分の感情を述べること〉ではある。感情を表現にのせようとすれば、やはりその背景に文脈があらわれるし、それが物語ということになるのは必然かとも思う。そして、読む者はそこに引き込まれる。
そんな視点で読み進めると、ゆたかな物語を楽しませてくれる作品にたくさん出会えた。
手短に紹介する。
北虎叡人「億の花」
はたらいたあとまだ暗い早朝のサドルの霜をてのひらでぬぐう
長い橋わたりきるまで見る川もひかりの粒を転がしながら
◎ 新鮮な生命感が印象的です。
安田茜「twig」
木の箸をつくえのかどに置いたあときみはきみだとつくづく思う
鴨川は一月のひび わたしにはかろうじて水切りができるだけ
眠るまえ森への帰途をうっとりと考えているむかしみたいに
◎湿度のある生活のなかから生まれる感情が無理のない表現で流れるように詠われている。生き生きとした息づかいが韻律に載っていて温かい。
牛尾今日子「冬と予報」
藤棚の冬のベンチに陽を浴びて君の言葉を知ってたみたい
借りてきた本の置き場を決めかねる部屋にひろがるこたつの沃野
自転車に向いていなかったスカートで白川通りをゆっくりくだる
◎空間造形がうまい。その空間から流れる情感がゆたかな印象。
小林朗人
それは夜 そのなかに舞い降りてくる波紋を果てしなく揺らすんだ
呼び止める声をほどけばささやかな波へとたどり着くことだろう
消えるときそれは記憶の紺碧に透けてゆく桔梗に見えました
◎一連に透明感のある情感があり、懐かしいような物語性が立ち上がってくる。
その他印象的な連作たくさんありました。
大森静佳 「金色の泥」
玄米の芯を噛む歯のさむざむとこころはつねにこころ追い詰め
藪内亮輔「くち」
生きるならわれら俯きゆくとして立ち止まるなよあかるい雪に
三潴忠典「本人確認」
抑鬱の傾向のある人が来た今日は曇りで明日には雨
土岐友浩
この次の次の市バスを待ちながら百年前の祇園を思う