眠らない島

短歌とあそぶ

永守恭子 第二歌集『夏の沼』

どこまでも伸びてゆく雲追ひかけて胸に小さきこころざし生る   
 
 最近、作者独自の美意識や世界観により緻密に構成された歌集を読むことが多かった。そんな中で手元に届いたのが結社「水瓶」所属の永守恭子さんの「夏の沼」であった。ささやかな日常を詩的に昇華して素直に掬いあげる。我が子の成長をしずかに見守る母親としての情愛、故郷に病んでいる老いた父への思慕、そして身巡りの生活空間や四季折々の自然の移り変わりが丹念な言葉で綴られている。上に引いた歌からも伝わるように、作風の肯定性が歌集全体に清らかな印象を与えている。
 
 この歌集には十数年にわたる期間の作品が収められているが、シンプルで端正な歌風はどれをとっても完成度が高い。第二歌集ということもあり、十分な吟味と熟練の末の歌集であることが思われる。ただ作者は、ある時期から「私自身の生と作品を少し離したい」と思うようになったとあとがきに記している。その心境の変化も歌集の奥行きを深くしているように思える。
 
  アヲサギとシラサギと佇つ雨の視野ほのぐらき静物画のやうに   

  光琳の秋草の図のそののちをしばしおもへる静かな眺め      
 
   一首目、二羽の鳥が雨を背景にして立っている。その空間が作者の視野によって切り取られることで、一枚の静物画のように見えるという。正確に二羽の鳥の名前を並べることで、くっきりとしたリズムが生まれ、それは歌に均整をもたらしている。「静物画のやうに」という直喩も独自性を際立たり、新しい切り口を見せるためではなく、どちらかというと歌の世界を落ち着かせるように働いている。この歌には一見なんの際だった表現はないようであるが、第三句の「雨の視野」という把握には強い理知が働いている。この認識によって景が新しく秩序立てられ私たちの前にまさに「静物画のやうに」差し出される。

  二首目、こちらは絵を見ることで、そこから心象の世界にはじまってゆく秋の野原の時間や空間を描いている。この歌には理はそれほど強く働いていない。ひとつ目を引く表現は「そののちを」であろうか。絵に感応して流れ出す時間に身を任せるように言葉を添えている。結句は「静かな眺め」とさりげない表現をそっと置いているのみである。普通こういう不用意な言い足しはできないが、あえて力を抜くことで感情を流露させるような印象を受ける。この二つはそれぞれ現実と非現実の景を捉えるという違いはあるがとても上手い歌である。そして気がつくことは、歌の核として働く力がやや異なっている。一首目はどちらかというと理知的な構成力が働いているし、二首目は定型に流れるやわらかな韻律が際立ち、そこに自意識が消されている。一首目は歌集の冒頭部、二首目は最後部から引いた。ここに詠み方の変化が見られる。
 
   かの夏に梁や柱は美しく組まれき壊れさうなりし日も   
 
  歌集冒頭の好きな歌。記憶の中から景を引き出している。家を支える梁や柱が整然と組まれ、構造物である家全体が生物体のように息づいている。そして、下の句では「壊れさうなりし日」と自己認識へと言葉を絞り込んでいく。自己認識と景とのバランスが絶妙である。それにしても自分は「壊れそう」なのに、家を支える梁や柱はぐらつきもしない。秩序をもって組まれた建物を作者は「美しい」と憧憬の眼差しで捉えている。それに対して自分自身はいつも変容するとらえがたきものである。
常に移り変わる自分という存在をどう捉えるのか、そういう関心が歌集前半の歌群に理知的な言葉の選択をもたらしているように思う。
 
   暗闇にヤマモモの木が揺れ動き胸の底にて何かたぢろぐ     
   紀ノ川をこののち幾度渡るらむ一度とて同じわれはゐずして   
   あきらめて隣の犬が鳴きやみしあとの辛さはわれのものなり   
 
  一首目、暗闇の「ヤマモモ」は、作者自身の「胸の底」にたじろいでいる「何か」を具体化するために奉仕しており、ここでは実存の暗さを凝視しているのだろう。二首目、紀ノ川の開けた風景を前にして作者の意識は内省していく。「一度とて同じわれはゐず」と自分をとらえる言葉には未来への漂うようなあてどなさがある。三首目、犬が鳴きやむそのあとの静けさのなかで犬の哀しみが作者の意識の中になだれ込んでくる。「あとの辛さはわれのものなり」と捉えることで作者の意識は自分自身へ向いていく。犬の鳴き声に共感している意識のとらえ方が卓抜であり、犬も「われ」も同等に孤独な存在であることにはっとする。ここにも鋭敏な理性が見られる。歌集前半の歌群には、渾沌とした現実を、あるいは自分自身を理性で再構成しようとする意識が強く働いているように思う。
 
  自転車の最後の一台なくなりて書道教室ふつと闇に消ゆ      
  風通しよき道ふかく呼吸すれば木の香かすかに春の製材所   
  赤き実をすつかり落としヤマモモは風の路上にひえてゆくらむ   
 
  さて、歌集後半になると前半で見てきたような自意識は影を潜ませる。「私とは何者なのか」という問いかけから、「何が見えているのか」へと意識が変化している。物象が立ち現れ、自意識がうしろへ退く。一首目、書道教室の前に置かれた子供たちの自転車。それが一人二人と帰っていき、やがて教室の灯が消える。自転車というモノを描くことで書道教室という時間の移ろいを鮮やかに捉えている。
 二首目もよく場所の雰囲気を捉えている。道の先に製材所があるだけのことを嗅覚という体感をとおすことで製材所に明るい実在感を与えている。三首目は、ヤマモモの歌。前半に引いた歌ではヤマモモは作者の心象に回収されてしまったが、ここではヤマモモは丁寧に描写されることで「風の路上」に確かな存在感を放っている。このように、歌集が後半にすすむにしたがって、自意識よりも物に即して詠われ、より深いところへ言葉が届いていくように思う。

 以上見てきたように、題材はあくまでも作者の生活の身辺に取材しながら、作者独自の切り方を見せて一首一首の歌の抒情の立て方が鮮やかである。そして肯定性のある意識が基調にあることもこの歌集に清潔感をもたらしている。長い期間にわたる歌を収録するとどうしても間延びする感じが出てしまうが、この歌集は緩みを感じない。平易で簡潔な言葉で日常にあざやかな光をあてる。ささやかな事に詩のありかを教えられたとき、明るむような喜びを感じてしまう。。
 
  ためらはず斬るとふ胸のすくことを大根のみが許しくれたり