眠らない島

短歌とあそぶ

生田よしえ 第二歌集『ふたたびの円』


生田よしえは1939年生まれ。1987年に結社『水甕』に入社している。兵庫県を代表する歌人である。
田よしえ『ふたたびの円』を再読した。あとがきをみると第一歌集から十八年ぶりの第二歌集ということだ。およそ二十年の歳月がこの一冊に封じられている。成熟するのに十分な時間がかけられている。
 
このところ若い人の歌を読む機会が多く、新鮮な感覚や、言葉の自在な表現に圧倒され気味であった。そこで、傍においていた『ふたたびの円』を読み、言葉の安定感にひととき息をついた思いがした。静謐で端正な文体のなかに、人が生活する生き生きとした空間がひろがり、光りがあふれ、時間が流れだす。身の回りに溢れる色彩や音を追いかけてゆくのは実に楽しい時間であり、心をゆったりあづけることができる言葉の森だ。

 とはいえ甘くはない。長い鍛錬によって磨き込まれた言葉は繊細な感覚によって瞬間をわしづかみする。そして世界の輝きを指し示す。
 
げんげ田はひかりのおびとなりて過ぐ快速電車の窓に入る日に  
布の鯉はためく空を傾けて少女の黒きバイク疾駆す   
石切場の石の先にて十六夜の月のひかりは屈折なせり      
 
一首目、春ののどかな風景を平板に描かないで、視覚を生かして掬い取っている。春の典型であるれんげ畑を、快速電車からの車窓にながれるひかりの帯とみることでその美しい色彩だけが私たちの前に取り出されている。二首目、五月の生命感を鯉のぼりと、バイクという異質なものをぶつけることで強い力を引き出している。「はためく空」という工夫のある表現や、「少女の黒きバイク」からは風をきるスピード感が溢れている。三首目は、瞬間の光景の美しさに目を見張った。石切場の石に月の光が差している。ここには石そのものに視線が入り込むような凝視の力があり、永遠の時間を感じさせる。それを結句の「屈折なせり」で見事に定着させている。石と月の光と作者のいのちとが一つになったような象徴的な作品と思う。写実という方法のこの作者の達成点のような気がして引き寄せられた。
 
 さらに、歌集のなかには、ものをものとして描写するだけでなく、ものの中へ入り込むような歌がいくつかあり、ものと自分の魂とが区別されない不思議な歌の世界がひろがってゆく。
 
睡魔には遠き何かに襲はれてわれおもむろにわれを失ふ   
円形の多き水槽巡れるは魚よりくらき人間の顔     
若きわれを追い詰めたりしうすき影谷の吊橋渡りてくるも     
 
 一首目、ただ眠り際の状態をいっているだけなのだが、入眠する自身の意識を正確に描写しようとしている。するとそこには自意識を越えた「何か」が現れてくる。存在への不安に肉薄した印象深い作品だ。二首目も魚を見ながら、じぶん自身の内面を見つめる歌。結句が鮮やかだ。三首目、これも不思議な気持ちで読んだ。若い自分を追い詰めたのが何なのか、定かではないがなにかに脅えながら生きている。そのながい時間が倒錯して今の自分に返ってきている。その不安感が「吊橋」という単語によく集約されている。吊り橋の揺れ動く不安感と、現在と過去を結ぶ時間、そして自分と外部世界をいやおうなく結んでしまう関係。自身の内奥を見つめる深い視線が言葉に刻み込まれいてどきりとする。
 
天あふぐ鷺ののみどを下りゆく魚はまなぶた開きたるまま    
 
 こうした、歌には作者の視線が内面から、外の世界へ向かっているのがわかる、しかも、見えるものを見るのではなく、見えない物をもありありと透視してしまう想像の力、感応する心、それをさせるのは、もちろん練り込まれた言葉の魔力でもあるのだろう。こういった緊張感あふれる言葉によって命そのものの残酷な美しさを見せつけられて感動する。
 この作者の到達していく先に何を見せてくれるのか、どんな世界が拓かれていくのか、そのあとを目を離さずにたどっていきたい。
 
 最後に、私が一番好きだった歌。ここにも時間の流れが逆流していてそこに生き生きとした意識の動きがあるように思う。世界のそとに遊行しているような自在な地蔵の目は作者そのものであろう。懐かしくて、自由なこころの世界があるようで忘れられない歌である。
 

  寿一さんは土葬であった とほきかぜをみているやうな地蔵の眼