岡崎裕美子 第二歌集 『わたくしが樹木であれば』
もう風の方向なども見ないまま吹かれっぱなしの砂浜に立つ
生きる場所とはいったいどこにあるのだろう。それはどのように生きるとかではなくて、生まな命のありかのようなもの。そういう場所があるとすれば、どんな瞬間に成立するのか。
この歌集を読みながら、なんだか切なくて苦しくなるのも、どんなに求めても、その命のおき場所が見つからないからかもしれない。この歌集にはたくさんの性愛の場面が読まれている。それは、命のかがやく瞬間なのであろうけど、結局は持続しない。性愛とはそのようなものだ。それはもっとも孤独を知る場所といえるかもしれない。だからその瞬間、わたしたちは裸身で世界のさなかに「吹かれっぱなし」で立っているのだろう。
やれという声がするそれをするなという声がする昼間なのに暗い
泣きながら追いかけたくなる わたくしの内部におこる風のあやうさ
人として生きているからパンプスをうるさく鳴らしホームを歩く
皮を削げばこのような色 生ハムをつまんだ指を交互に吸って
修辞的な文体は避けられて、想念がむき出しのまま突き付けられてくる。現実以上に内面化された現実の中からの肉声である。
1首目、惹かれた。「やれ」といい「それをするな」とは作者自身の意識の葛藤なのだろうが、その表出はぎりぎりの緊張感を孕んでいる。なにか内面を切り裂かれるような迫真性の表現が屹立している。
2首目は、それに比べてずいぶん柔らかいのは、自意識から一歩引いて詠んでいるからであろう。しかし、ここでも葛藤する自己と不即不離の距離を保っている。
3首目、「人として生きている」ことへのことさらな言及は現実との齟齬のあらわれだろう。「うるさいパンプスの音」は雑音でしかない。こういう特異な感覚にこの作者の、心と身体、そして命という三位一体感の欠落があり、それはとても先鋭的であり最も現代的な自己認識のように思う。こういう感覚を追い詰めてゆけば4首目の歌に到達する。皮膚を剥いだ身体の痛みへの感受が痛々しい。
きみがいるところがいつも島なのだ 逢いにいくとき私は泳ぐ
冬の日の朝は電話のほのあかりつけて私を確かめている
冬の川眺めておればすっと立ち髪光らせる われを捨てるか
刃物のような乾いた文体ばかりでなく、歌集中にはほのかな湿りを感じる歌も多い。歌集のタイトルにも使われている「わたくしが樹木であれば冬の陽にただやすやすと抱かれたものを」などは、イメージと思いがなめらかに溶け合って美しい。ここに引いた1首目の「島」の比喩も魅力的だ。関係のなかで生きようする意思が立っている。2首目は、静かな歌。一つ一つの行為は、「私を確かめ」ることに帰着するのかもしれない。電話のかすかなあかりのなかに照らされる命が美しく切ない。3首目、詩的なイメージのなかに、緊張感が流れていて。この作者らしい覚悟のあるスマートな歌。
歌集に収められた作品には、作者が身体をとおして切り取った言葉によって、生のかがやく瞬間が多様な息遣いで刻み込まれている。さりげない言い回しのなかに、湿りのある濃密な表現として表れて、読むものを魅了する。最後にもっとも好きな歌をあげる。
降ってきたよと言いながら窓を閉めてゆく 急に二人の部屋になりゆく