眠らない島

短歌とあそぶ

木下こう  第一歌集  『体温と雨』

 
 木下こうさんの歌集を読んだ。ノスタルジッックな言葉が繊細な感覚で使われて、修辞も行き届いている。現実と付きすぎず、離れすぎない距離感を保ちながら、幻想的なそして懐かしいような歌の物語が広がってゆく。口語と淡い文語とを上手く織り交ぜて定型におさめていく手腕がすばらしい。その柔らかな韻律のつややかさだけにも酔ってしまいそうになる。木下さんの歌の世界は独特な豊かさを持っている。この豊かな表現はどこからもたらされたのだろう。
 
 そう思いつつ、何度か読み返してゆくうちに、自然と北原白秋の歌の世界と重なっていくものを感じた。白秋のノスタルジーとメルヘンチックな言葉遣い。そして懐古的な言葉選びや現実の匂いのなさ。とはいっても日常の場面から幻想的なイメージを立ち上げてゆく言葉の喚起力。青年期からの憂いや「寂しさ」としてあらわれるものがなしい心情。なによりも白秋中年期以降の韻律の音楽のような美しさがこの歌集のなかにもそのまま生きているようにも思われた。
 
 私の先師である米口實先生は『多摩』の時代からの白秋晩年の直弟子である。その先生が白秋の歌を何度か暗唱されるのを耳にしてきた。その歌のリズムやイメージが懐かしくこの歌集からよみがえってきた。
 
   蝋燭に火をうつしゆく人の目の中をとほのくつめたいきつね     
 
この歌集の中で私がもっとも愛する歌。ノスタルジックで幻想的。「火」の使い方がなんとも寂しく美しい。そしてこの歌を読んでいると自然に
 
君が心よゆふさりくれば蝋燭に火の点くごとしひもじかりけり   『桐の花』
 
を思い出してしまう。木下さんの歌集の中には少なからず「火」が使われる。
 
  火のことであらうか夢のまたたきのまぶしさのなかに人の告げしは    
  夜のうちにそつとかかへて火を点けてゆくまつしろなうさぎのまなこに   
 
 私はこういう歌に当初から惹かれてきた。「火」がかもし出す暖かさや、その後ろにある闇の深さ。それは存在の寂しさを照らし出しているようにも思えてならない。それは先に引いた白秋の切ない恋の歌に遠く通底しているのかもしれない。
 
 ダアリアを剪りつつ邪悪ね、と言ひぬ けふこひびとに差し出すダアリア
 
どちらかというと線の細いこの歌集のなかで、ひときわ目を引く一首。大胆で官能的な表現に魅了される。ダリアの毒々しい色彩と、欲情が燃え立つように描かれて映像が立ち上がってくる。この「ダリア」はまさにこの歌とは切り離せない。
 
  君と見て一期の別れする時もダリアは紅しダリアは紅し  『桐の花』
 
こうして並べてみると、木下さんの「ダリア」は女性の邪悪な官能をよく感覚的に捉えている。小悪魔的で力のある光彩を放っている。
 
いささか白秋に引き寄せ過ぎたようだ。もし、この作者が白秋の歌集を読んでいらっしゃるなら、これほど白秋の歌の上質さを自家薬籠中のものにされたことに脱帽するばかりである。そういいたくなるほど、この歌集は幻想的でもあり、音楽的でもあることにその魅力の源泉があるように思える。
 
もちろん、この作者独自の感覚があり、読み進むにしたがってその表現は磨き込まれ、深い情感が流露していく。
 
  着脱は貧のしづけさグラニュー糖の器(うつわ)のよこにてぶくろを置く 
 
この作品の初句に瞠目した。日常的に衣服を脱いだり着たりする、生きて暮らしていく人の営為にまつわる根源的な寂しさを「貧のしずけさ」とする断言の斬新さと静謐さ。その言説と後半の景とが絶妙なバランスを持っていて圧巻である。この作者の生きることの「寂しさ」に実感的に迫っていく表現に限りない羨望を感じてしまうのは私ばかりではあるまい。
 
   まな板をたてかけたまま魚を食む昼やみてまた夕にふるあめ