眠らない島

短歌とあそぶ

川本千栄  第三歌集『樹雨降る』



いつも誰かとつながっていたいという気持ち無くて見ている片脚の鷺   
 
川本千栄第三歌集『樹雨降る』を読んだ。川本千栄といえば論客というイメージが強くある。歌は残念ながら第一歌集『青い猫』第二歌集『日ざかり』を通して読む機会がなかった。断片的には目にしたが、子育ての歌が中心だったような印象がある。
今回、第三歌集『樹雨降る』を読んで、ずいぶんと印象が違った。おおざっぱな感想になるが許していただきたい。この歌集の主体には、現実の世界との齟齬感があり、どことなく今ある場所に居心地の悪さを感じている自己が透けて見えてくる。その違和感は外界だけでなく自己のありかたにまで及ぶ。今ここにいるのに、まるで旅の途中に立ち寄ったようなあてどなさを感じる。
 
不機嫌な母親であるわれに沿い子は饒舌に溺れてゆくも   
自らが老いゆくことをうべなえず泰山木の花の厚さは  
 
それは親子の関係にも反映している。臆面も無く愛情を子に注ぐことができずにどうしてか、いつも「不機嫌な母親」としてしか自分を出せない。二首目は、だれしも感じるところだが、自己認識のありようにあきれるほど妥協がない。
 
不全感が自意識の核にあり、それがこの作者の場合、主体の弱さにはならずに、安易な関係性にもたれかかろうとしない自立性にも繋がっているように思う。もしかして、調和した自己あるいは世界ということをどこかで拒否しているのかもしれない。だれにおいても自己はいつも分裂しているし、この世界が一度だって平和で幸福であったこともない。川本の歌を読んでいるとそういう矛盾に満ちた現実の実相を生活の次元からあからさまにされてゆくようでたじろいでしまう。巻頭に掲出した歌にもそういう特色が明らかだ。確かに「いつも誰かとつながっていたい」と思うかと自分に問えば、そんなことはない。誰とも話したくないし、誰にも話しかけられたくない自分が確実にいる。人と関わることの煩雑さや苦しさがあり、それを認めてしまえば、裏返るように孤立感を抱かざるをえない。川本は容赦なく人間存在の負の意識にひかりを当てている。
 
理解されなくてもいいのだ生きている時間はそんなに長くないから     川本千栄と縦書きにしてつくづくと真っ直ぐ寂しい名前と思う   
 
一首目、「理解されなくてもいい」と本当に思っているかどうかではない。安易に「理解しあう」と言ってしまうことへの抵抗感を披瀝しているのだ。二首目は、ある意味、不器用な自分への覚めた認識が名前を表記する漢字に感応しており、せつない気分がすとんと胸に落ちる。
 
夫も子も居ぬ昼食のうれしさよ栗入りあんパン薄く頬張り   
いいことがありますように全身に広がるヘルペス消えますように  
 
 こうした自分への距離感がときにユーモラスな歌を作らせる。一首目は「うれしさよ」とやや大仰な振りをみせて主婦としての怠慢をほがらかに歌い上げる。「栗入りあんパン」という安っぽい贅沢感がなんともおかしい。また二首目、「いいことがありますように」のあとに「全身のヘルペス」という見過ごしにはできない痛苦が「いいこと」と並置されるときこの落差に自虐的な笑いが発生している。
 
明らかに死の側にいる人ならん生者を不思議そうに歌にす    
その憂さに耐え切れざれば庭に出て刃物にて蟻を殺しし鉄幹   
 
この歌集には家族の歌に限らず、実に多彩な題材が読み込まれている。一首目は師である河野裕子の晩年の姿をシャープに切り取っている。また二首目は、近代短歌のルーツに遡って与謝野鉄幹の姿をまるで自分の姿のようになまなまと再現している。こうした他者への視線も実にクールであるだけに一首の中で命を吹き込むことに成功している。
 
電灯を今日換えたれば隅々に光は満ちる青くかつ白く   
 
川本の歌は、退屈な日常を幾重にも覆っている意識の薄皮を一枚、一枚はがすように作られている。そういう現実の実相を冷徹に認識するからこそ、真に満たされた関係性を渇望する。歌集の後半には相聞歌が散見する。また、自身の病気の歌も登場する。どちらも、自身を追い詰めざるをえないところでの他者とのまた自身との本質的な関係性への渇望がうねっているようだ。
 
突然の樹雨よ道に迷いたるわれら濡れおり顔をさらして    
雪重き傘振っている今までに死んでいったのはいつも他の人