眠らない島

短歌とあそぶ

藤川弘子 第五歌集 『夏の庭』


花終へてなほ匂ひ立つラベンダーは庭草を引くわれのかたへに   
 
水甕叢書に入っている藤川弘子の『夏の庭』は初夏の風が吹き渡っているようなみずみずしさが溢れている。一首、一首を呼吸するように無理なく歌い上げている。修辞にあまり心を砕かず、率直な歌いぶりに心が解き放たれる。かといって単に生活記録的に詠むのではなくて、見巡りの植物や小動物へまた周囲の人々への感応の仕方に躍動感があり、さりげなく修辞をほどこしながら繊細な表現で差し出してくれる。
そういういった姿勢は作り込んだ歌よりもかえって新鮮でこころを揺すられるような気持ちで読み通した。巻頭の歌は花を終わったあとのラベンダーを詠んでいるのも一工夫している。それだけで、作者の心境に無理なく入っていける気がする。平易な詠みぶりに、作者の生きてきた長い時間が横たわっている。
 
胡麻(ごま)の花庭に咲きそむ疎開して祖母の畑に見し胡麻の花    
( あたら)しか爆弾だげな」と姉と甥の死をわが母にもたらしし人  
警戒警報解除ののちに西にむかふB29を見し八月九日    
 
一首目は歌集巻頭に続く歌。ここで「疎開」という言葉に出くわしてはっとした。作者の少女時代の回想に混ざり込む戦争の記憶。あとがきを見ると作者は昭和10年8月18日に生まれている。疎開先が長崎であったことが、作者にどれだけ大きな傷を残したことか。しかし、それを気負ったり声高には歌わない。悲しみを記憶の深くに湛えながら、長い再生の時間のなかで、ものを見る澄んだ眼が熟成されていったようだ。それは今まさに生きている世界の輝きを捉えようとする祈りにも似ている。
 
姿消しゐし修正液は二日のち電話機の横にすつくと立てり     
わが内に重りをおろす心地せり逆光の五重塔あふぐとき      
自転車の出し入れのたびにわが眼引く( くれない)の実は冬苺にて    
 
歌集を読んでいて作者の眼が実に生き生きとものを捉えていくのがとても楽しい。一首目は、日頃よくある場面。無くなったと思っていた修正液が二日ほどして見つかったときの驚き。その瞬間を「すくつと立てり」とものの方に即して表現する。修正液の存在感がリアルに立ちあげている。ものの輝きをこうして捉えることは、堅い自意識を解いてゆく自在な感性がさせる技であろう。しかもどこかユーモラスで楽しい。
二首目は不思議な感覚の歌。五重塔は垂直に天に向かって建っている、それを見上げるとき、自分の中に逆さになって宙づりになるような感覚か。五重塔の荘厳な存在感が作者の中にずっしりと受け入れられてゆく感動が伝わってくる。三首目はさりげない日常のスケッチに、こまやかな観察の眼を感じさせる。「自転車の出し入れのたび」という動きがこの歌に躍動感をもたらしている。
 
どんと押しやうやく閉まる冷蔵庫この年の瀬を越せるや否や  
水流のゆたかなる春の木津川に沈下橋ゆく白き自動車      
 
弾むような自在な歌いぶりは作者の実年齢を感じさせない若さがあり、歌集に清涼感を生んでいる。しかし、それは軽いということではない。日々の些末な出来事をやり過ごしながらこの作者の認識は深いところに届いている。それは哀しみに束縛されずに自由になろうとする意志なのかもしれない。
一首目を支えている精神の骨太い闊達さは見事であろう。また、二首目はなんとも涼しげで美しい一首。木津川という固有名詞が輝きを放っている。年齢を重ねながらこういった自在な世界に到達する、あるいはしようとするこころが眩しい。脱力ということを教えられた気がする一冊であった。
 
洗濯物はらりと落ちてラベンダーの花群ふいに匂ひだつなり