眠らない島

短歌とあそぶ

樋口一葉の歌 その4

樋口一葉のうた」 その4
               
近年、晩婚化が進み三〇代の女性の三人に一人が独身だという。女性は高学歴になり、社会進出が進んできたのであろう。明治五年に生まれ、二九年に亡くなった樋口夏子という人を思う時に、どうにもやりきれないのは、当時の男子にも全くひけをとらない自立心と野心とそして才能を秘めながら、厳しく教育と就労の機会を奪われていたことである。一八八〇年代、工場労働者の九〇%が女子でしめられていた。それは紡績工場という社会の最底辺の女性たちの就労の形態であり、樋口夏子のような、いわゆる中流家庭出身の女子にどのような生きる道があったのか。夏子が一四才の時、弟子入りしようとして断られた下田歌子が欧米の視察から帰り、近代的な女子高等教育を目指して実践女子学園を設立したのが一八九九年、夏子の死の三年後のことである。
 夏子の前に立ちはだかって生涯苦しめたのは、貧困であり、病気であるが、もっとも大きなストレスとして彼女を苦しめたのは女性蔑視の視線ではなかったろうか。封建的な社会観念が圧倒的に根強い明治社会にあって、女性が志を立てて職業をもつことも蔑視の対象であったろう。そういう抑圧を掛けてくるのが最も身近な同姓である母親からの場合、影響は決定的である。
 夏子が一三才になったとき、女に学問はいらないと学校を辞めさせたのは母親であった。そのときの気持ちを夏子は「死ぬよりも悲し」かったと記している。
 その後、父を亡くした夏子は、近眼のため裁縫もままならず、小説で母と妹の生活費を捻出しようとして苦闘が始まる。しかし、それも思ったような収入にならない。明治二六年夏、樋口一家は、竜泉寺町に居を移し、慣れない商いを始めることになる。その七月一二日の日記に、母親の言葉を記している。
「子は我が言葉を用いず、世の人はただ我れをぞ笑ひ指すめる、邦子も夏子もおだやかにすなほに我がやらむといふ処、虎之助がやらむといふ処にだにしたがはば、何条ことかはあらむ、いかに心を尽くしたりとて、身を尽くしたりとて甲斐なき女子の何事かをかなし得らるべき、あないやいやかかる世を見るもいやなりとて朝夕にぞのたまふめる」
 ここには、封建的な考えや生き方を娘にも押しつけようとする無力な一人の女性の姿がある。娘の結婚はその配偶者に母親もまた依存することを意味し、女性にとって、それが唯一与えられた生きる道なのである。夏子は内心反発しつつ、深く心に刻んでゆく。
「いかに心を尽くしたりとて、身を尽くしたりとて甲斐なき女子の何事かをかなし得らるべき」
 この言葉は、夏子自身の主要なモチーフとして深められ、当時の女性たちの煮え立つような苦しみとして、小説のなかに見事に表現されてゆく。二八年夏以降、小説家としての名声を得た後においても、夏子の自己評価は意外に低い。学歴もない女の身を自らさげすみ、必要以上に厭世的、虚無的な気分に浸っている。「文学界」の有望な青年たちに囲まれているときでも、夏子の内心は孤独である。
 夏子に歌を与えたのは父、則義である。小学校をやめてから、家事手伝いをしていた夏子を中島歌子の萩の舎に入門させ、和歌・書道・古典を学ばせた。当時、中流家庭の女子教育を担っていたのはこのような私塾であったようである。この父への情愛があふれている美しい文章がある。明治二八年秋に書かれている。習い始めの頃、夏子は父に添削してもらっていたようである。その頃の反古を見つけ出して
「詠草を抱きて父様父様と泣きぬ」
とある。父への思いは尽きなかったようだ。萩の舎では旧派和歌を学ぶことになるが、その是非はともかくとして、夏子にとって自己表現の手段を手にしたことは、このうえない幸運であった。夏子は歌を糸口として、豊かな古典文学の世界にも触れるのである。
 明治二六年七月、夏子が商売を決意するかの高名な日記の冒頭である。
ひとつねの産なければ常のこころなし、手をふところにして月花にあくがれぬとも塩噌なくして天寿を終らるべきものならず、かつや文学は糊口のためならず、おもひの馳するままこころの赴くままにこそは筆はとらめ、いでや是より、糊口的文学の道をかへてうきよを十露盤の玉の汗に商ひという事はじめばや
…中略…
ましてやもとでは糸しんのいと細くなるからなんとならしばしゐの葉のこまつた事なり。されどうき世はたなのだるま様ねるもおきるも我が手にはあらず。造化の叔父様どうなとしたまへとて
 とにかくに越えてをみまし空せみの世わたる橋や夢のうきはし
 
日記を読んで不思議な感に打たれる。冒頭は力強い漢文調である。夏子が日記によく用いる、自らを鼓舞するようなリズム感があふれている。それまでの「糊口的文学」(売文生活)からの離別を高らかに宣言しながら、後半は、営業資金調達への不安へとトーンが一気に下がってくる。ところが結末部では、さらに転調して、そんな境涯をまるで人ごとのように「どうなとしたまへ」と楽観的に突き放し、さらりと歌を詠んでいる。
およそ一月後の八月に詠まれたと思われる詞書き付きの歌がある。
秋の初めに
よのなかは秋のはじめになりにけりいかがはすべき袖のうは露
この二首の歌にリアリティが欠如しているということはできるだろう。現実は非常に逼迫していながら、歌からはそういう日常は見えてこない。むしろ、「空せみ」「夢のうきはし」「袖のうは露」といった類型的な歌語を配置することによって、現実感をぬぐい去ろうとするかのようである。これこそが新派和歌から批判の的となるところであろう。しかし、こうして日記のなかに置かれると、締め付けられるような先鋭な自意識から一瞬、解き放たれるような浮遊感がある。ここには夏子という人に内在している二重の意識、あるいは時間を思わせる。それは一言で言うと「あそび」である。二首目の歌は、竜泉寺町の店をやっと開店にこぎ着けたころの作である。低所得者の密集する地域に移り住み、零落した身の上を詠んでいるのであるが、伝統的な詠法にゆだねることで、それほどの実感は伝わってこない。それは、近代和歌の観点から読むとまさに類型的であり、新味に乏しいということになるのであろう。しかし、この歌にしても、日本人が長い時間をかけて磨き上げてきた「秋」とか「露」といった言葉に置き換えられる季節という大きな時間の中に夏子自身を同化していくことで、そこからある種の慰藉を手にしているようにも思える。歌の中では、夏子は鋭い自意識から解き放たれている。「私性」と引き替えに、和歌は夏子とその過酷な現実との間に距離を与え、かろやかに抒情することで自由な時空間を作り出している。この抒情性も夏子の文学の大きな美点といえるだろう。