眠らない島

短歌とあそぶ

樋口一葉の歌 その5

樋口一葉の歌」その5
 
明治二七年五月、樋口家は竜泉寺町を引き上げ、本郷区福山町に転居する。商売を打ち切るのは、営業不振のためであるといわれるが、詳細は明らかではない。ただ、夏子は自身がもっとも軽蔑する利欲の世界で、子ども相手の一厘二厘の商売にあくせくしなければならない生活を大きな矛盾として意識したはずだ。また、仕入れは夏子の役割であり、荷を背負って何里も歩いたようである。これには相当の体力の摩耗と時間の浪費を伴う。辛苦の末、得られる利益はわずかであり、相変わらず知人への借金に頼った生活から抜け出せない。しかし経済的飢餓にもまして、彼女にとって耐え難かったのは精神的な飢餓感であったようだ。商売を打ち切る決意をする日
魚だにもすまぬ垣根のいささ川くむにもたらぬところなりけり
塵之中日記明治二七年三月一三日
という歌を詠んでいる。「魚だにすまぬ」ところは塵芥にまみれた竜泉寺界隈であり、そこでの不毛な暮らしである。無名の存在として何を成すこともなく埋もれてしまうことへの脅威と焦燥感が夏子を捉えて放さない。日記を読んでいると随所に、英雄願望を抱いた少年のような熱い立志の思いが記されている。そうであるから、反転して思うようにならない境遇を嘆き、人生を虚無の目で見ることもしばしばだ。
そんな夏子に文学の世界の新しい風が吹き込んでくる。『文学界』のメンバーとの交友である。明治二六年一一月に発表された「琴の音」をきっかけとして、三月ころから始まっていた平田禿木との交友が深まってゆく。同世代の青年から純真で真摯な芸術への情熱を感じ取り、自らも大いに奮起するところがあったろう。そういう文学仲間との出会いが、現実を直視してゆくリアリズムの視線や内面性への洞察力の獲得、自我の覚醒をもたらし、飛躍的な精神的成長を遂げることになる。
ところで、この時期の夏子にとって、文学とはまだ小説よりも、歌のほうに比重があったように思われる。
明治二六年一二月の日記では、
 さりとて、みそひと文字の古体にしたがひて、汽車汽船の便のあるよに、ひとり、うしぐるま、ゆるゆるとのみあるべきにあらず。いかで天地の自然のもととして、変化の理にしたがひ、風雲のとらへがたき、人事のさまざまなる、三寸の筆の上に呼び出してしがな。
 さらにつづいて
人の心に入て人の誠をうたひ、しかも開けゆくよの観念にともなわざれば也。詞はひたすら俗をまねびたりとも、気いん高からばおのづから調たかく聞こえぬべし。
この文章から夏子が、当時の歌壇の動きに大きな関心を持っていた様子がうかがえる。
ざっと、夏子と同時代の歌壇の動きを追ってみる。明治一一年に『開化新題詠集』が発刊された。文明開化期の新題による題詠が流行して「開化」を題した歌集を集大成したものである。作者は一三七人に及び、その中には師の中島歌子も名を連ねている。
明治一五年に出た「新体詩抄」はヨーロッパの詩を移植して、我が国の詩文学に新しいジャンルを立てた。旧来の詩文学を否定する立場をとることになる。その後、明治二〇年あたりから、欧化主義への反省がもたらした、伝統に対する自覚による国文学の興隆を背景とする、新進国文学者たちの和歌改良論運動があらわれ始めた。これらの論調は、伝統的な歌語を廃し、実景、実物に基づいたまことの情を詠うことを主張するものである。明治二四年、落合直文は『新撰歌典』を編んで、和歌改良の意図をふくんだ新しい詠歌の方法を示し、二六年二月あさか社を結成して、和歌革新の実践化の第一歩を記した。まさに明治二六年は和歌変革運動始動の節目の年であったともいえる。有名な歌道への復帰の宣言を引く。明治二七年三月二五日の日記から 
おもひたつことあり うたふらく
すきかへす人こそなけれ敷島のうたのあらす田あれにあれしを
いでや、あれにあれしは敷島のうたばかりか、道徳すたれて人情、紙のごとくうすく朝野の人士私利をこれ事として、国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。かひなき女子の何事を思ひ立ちたりとも及ぶまじきをしれど、われは1日の安きをむさぼりて、百世の憂を念とせざるものならず。…中略…  
いでさらば、分厘のあらそひに此の身をつながるべからず。去就は風の前の塵にひとし。心をいたむる事かはと、此のあきなひの店を閉じんとす。
 例の漢文調で、志は高く国家の道徳に及んでいる。夏子は、逆境にあるときほど、日記では積極的にそれを転機として自らを鼓舞するかのようである。三月二八日の日記では、中島歌子から月二円の報酬で萩の舎の助教を務めることを請負い、「歌道」のために尽くしたい旨を記している。
 ところが経済的な援助を仰ぐとしても、あくなき金銭欲と堕落ぶりを見せつけられた今となっては、中島歌子は既に夏子の歌の師ではない。このころ夏子に歌への復帰を促した人物が小出粲である。小出粲は御所寄人であり、桂園派風ではあるが、新味を取り入れようとする著名な歌人であった。その小出に書き手が多い小説よりも歌を詠むことを勧められている。
 されば中島の社中人多しといへども、我みたるところにて君をおきてこれかと見ゆるものなきに、君にしてふるひ給はねばかならず千載に名を残して不朽の事業たるべしと思ふにいかで世に立ちたまはずや。
 小出は夏子の歌の才を高く評価している。ところがその小出の歌集を夏子は痛烈に批判することになる。
 常々、我にさとした給ふやう、和歌をつくらんとおもふなかれ、おもひ得たるままをよみたまへかし。人智にかぎりあり。天地のきわみあるべからず。学とも用なし。経験恐るるなかれと仰せられしものから猶君の歌にも知恵あるこそうたてけれ。いゐてをさなびたるは誠の心ならねばかひなし。君が歌は幽玄のさかひを極むる事いまだ百里のかなたなる
           明治二八年五月六日 
とこき下ろしている。一首引いた歌は
  一たびはのぼりてみんと昔より見るたびおもふ雪のふじの嶺
発想も表現も幼稚である。しかも故意に天真爛漫さを装っていることが夏子には我慢がならなかったらしい。奇しくもこの段では、夏子が「幽玄」という言葉で自身の歌への理念を洩らしている。おそらく夏子が歌に求めたものは、このような平易で見え透いた「まことの心」ではなく、「精神的な深み」としての「まことの心」であり、詩として純度の高い表現の獲得であったろう。そんな夏子の目には当時の旧派も新派和歌も新味ばかりを追って、調べも低く、内容も取るに足らないものと映っていく。「つゆのしずく」から引く。
すがれよとまねく袂もうかりけりひとりやたたんただひとりにて
小説においては多くの秀才たちが夏子を支えた。しかし夏子が好きだった和歌においてはたった一人の仲間も見いだせなかった。歌人夏子は孤独であった。