眠らない島

短歌とあそぶ

樋口一葉の歌 その6

樋口一葉のうた」 その6
 
 商売から足を洗い、身を投げ打つ思いで和歌革新に立ち上がった夏子であったが、その活動の実際はどう進捗したのであろうか。その足跡をたどって、夏子の歌の顛末を見定めたい。
 萩の舎の助教として、歌の世界に復帰した
二七年四月以降、夏子の詠んだ歌数は多くない。二七年には一二〇首程度、二八年には、三〇〇首弱、そして亡くなる二九年には病床で詠んだ数首があるだけである。残された詠草の殆どは、宿題系の歌であり、歌子に提出し、その添削を仰いでいる。助教としての夏子への敬意からか、その詠草集をみると歌子の添削自体は簡単でむしろそっけない感じもする。しかし、わずかでも新派らしき言葉遣いがあらわれると、歌子の批判は手厳しい。たとえば、「旅宿恋」という題詠では
 草枕うさやわするとみし夢のやがておも荷となりにけるかな   明治二八年三月
 これを次のように添削している。
やがておも荷となりにけるかな→ものおもひそふる種となりにき
 下二句について「歌を好むあまりかかる詞をとり出すはよろしからず。恋の歌とはさらに聞こえず」と、全面否定している。「おも荷」といった口語的な発想が気に障ったらしい。
 このような監視の目の厳しい塾のなかで、夏子にどれほどの自由な試みが可能であったか。何ほどのこともできないことがわかるまでそれほど時間を要したとは思えない。
 また、和歌革新の道に夏子がつまずいてゆくことになるのは、彼女自身の和歌にたいする理念そのものにも原因があたったようだ。
当初、夏子が目指していた和歌の改革の方向は二六年一二月の日記から読み取れる。
 さりとて、みそひと文字の古体にしたがひて、汽車汽船の便のあるよに、ひとり、うしぐるま、ゆるゆるとのみあるべきにあらず。いかで天地の自然のもととして、変化の理にしたがひ、風雲のとらへがたき、人事のさまざまなる、三寸の筆の上に呼び出してしがな。
ここで述べられている、新しい時代の景物や人事を生き生きと活写するという作風はそのまま作家「一葉」が目指していく方向でもある。「たけくらべ」執筆直前(明治二八年一月)に記したと思われる感想「しのぶぐさ」を引く。 
はかなき花紅葉につけても今の世の様など詠へるをばいみじういやしきものにいひくたすこころしりがたし。今千載ののちに今の世の言葉をもて今の世のさまをうつし置きたるをあなあやし、かかるいやしき物さらにみるべからずなどいはんものか。明治の世の衣類調度家居のさまなどかかんに天暦の御代の言葉にていかでうつし得らるべき。それこそはことやうなれ。さるかきものの後の世に残らば人あやしみてもののこかげにやおかん。
これはそのまま、萩の舎の旧態然とした雰囲気を批判したものと取れないこともない。
夏子は、小説の世界で写し取ったように、歌でも新しい詞を使って、人の心の機微を捉えようと試みたのである。しかし、夏子にとっての歌はあくまでも「調べ」そのものであり、三一文字という定型のなかで格調高く詠まれるべきものであった。小説においては格調高い雅文体で明治の女性たちを描写することに成功している。しかし三一文字という制限の中では雅文体と新しい題材とはなかなか巧く解け合うことは難しかったようだ。そのなかでも目に付く歌を詠草集から引いてみる。
若水
あさぼらけきしる車の音すなりたれか若水をまずは汲むらん
「としのはじめ戦地にある人をおもひて」
おく霜の消えをあらそふ人もあるをいははんものかあら玉の年
一首目は新年の清新な朝、「きしる車の音」という新しい感覚で、新時代の年の初めの引き締まった雰囲気をすくい取っている。
二首目は詞書きを置くことで、日清戦争という社会的な状況の緊迫感を詠っている。これなどは、題材も新しく革新的である。しかし、歌い方そのものにそれほど新味があるとは思えない。これらはすべて、歌子の添削を通っている。そして、詠草集のほとんどの作品は古風な題詠から脱してはいない。
 一葉は同時期に、萩の舎に提出するものとは別に私的な感想の中で歌をいくつか詠んでいる。また詞書きの歌集を作ろうとも試みていたようである。有名な一文を引く。
かれも人なり。馬車にて大路に豪奢をきそふ人なり。これも人なり。夕暮れの門にゆききをまね来て情を売るの身あり。かれを貴なりといふしるべからず。これを賤しといふしるべからず。天地は私なし。万物おのおの所にしたがひておひ立ちぬべきを何者ぞはかなき階級を作りて貴賤といふ。娼婦に誠あり。貴公子にしてこれをたばからむは罪ならずや。
池水によなよな月も宿りけりかはる枕よなにか罪なる
 娼婦に対する社会的な偏見に対する反発は、そのまま「にごりえ」などの主要な小説のテーマに繋がるものである。しかし、その散文の力に対してやはり歌の印象は弱い。雅文体の歌には思想は重すぎるようだ。
 夏子自身も自分の歌に満足していたわけでは決してない。明治二八年三月
この月をいかさまにしておくらん。あはれよねもなし。こがねなど更に得べき望もあらず。身の職とてもわづかに筆とりてものかくよりほかはあらず。それとて一紙なにほどにかあたひせん。日々にかうべをなやましてよみ出る歌どもにさへわれながらよろしとうなづくもあらねば、まして人の見る目はいかならん。
 とますます逼迫する生活と原稿料の安さ、歌作の苦しみを嘆いている。自作の歌が自身の理念とする「幽玄」の境地からはほど遠いとわかる悲しさ。この文章のあと、自分の歌を短冊に書いて家の前で売りたいが、買う人もないだろうと自虐的な言葉が記されている。「たけくらべ」の執筆時期であるが、これは同人誌である『文学界』に連載していたので、原稿料はほとんどなかったのである。こういう生活の辛苦が夏子から歌への情熱をゆっくりと奪っていったとは言えるだろう。
亡くなる一年前、明治二八年十月九日の日記に萩の舎の例会に出席した感想を
例のごとくをかしき事もなし
と記し、此の後、塾を退いて小説に専念するようになる。夏子の和歌革新への志は半ばにして挫折してゆく。そして萩の舎と切れることは実質的な「歌との別れ」を意味する。ところで夏子は内弟子をとって、歌や書を教えることを許される。歌子からの経済的な計らいは続いたわけだ。しかし、夏子が小説家としての名声を手にするに従って萩の舎の人々からの嫉妬や誹謗に苦しめられる。小説の成功が死の前の夏子を孤独に追い詰めた。
最後に晩年の感想集からひとつ歌をひく。
わが岡の笹の葉ぬれし朝霜のとくる日陰に小鳥鳴くなり
朝陽をうけて笹の葉に置いていた霜が解けてゆく。裏庭の葉陰から姿は見えないが美しい小鳥の鳴き声が聞こえてくる。ここには満ち足りた朝の時間が流れている。日陰で鳴く小鳥のように、夏子も、わずかに歌の中で幸福な時間を手にしていたと思いたい。