眠らない島

短歌とあそぶ

樋口一葉の歌 その3

樋口一葉のうた」 3
 
森鴎外の自伝的作品である「ヰタ・セクスアリス」で二一歳になった主人公金井君が、洋行を前に要人と顔つなぎをするために待合を度々利用するという件がある。そこで金井君は自分の懐具合を次のように述べている。
僕は古賀の勤めている役所の翻訳物を受け合つてゐたので、懐中が温かであった。その頃は法律の翻訳なんぞは、一枚三円位取れたのである。五十円位の金はいつも持っていた。
そして、芸者を四、五人呼んで飲食をして一人前の代金が三、四円位であったと記している。鴎外の年譜によると明治十七年が二一歳にあたる。このころの一円は、ほぼ現在の一万円相当と考えていいらしい。夏子が小説家を志した明治二五年頃は、物価の上昇がひどかったようであるが、そんな時勢に一家は月十円ほどの生活費で家計を立てていた。件の小説の記述がほぼ現実であるとすれば、独り者の鴎外が手にしていた小遣いのわずか五分の一に過ぎない金額で一家三人が暮らしていた事になる。しかも、実際に収入があるのは仕立物や内職から入る数円であり、あとのほとんどは借入金であったようだ。ちなみに当時住んでいた家の賃料は二円であり、それも度々滞るほどであった。正岡子規といえば、ほぼ夏子と同じ時期に、月給四十円の暮らしをしつつ、貧乏を度々嘆いている。夏子をとりまく環境がどれほど過酷であったかが推察できる。なんの学歴もない若干二十歳の女性が、社会的地位のないままに一家を養おうとして途方に暮れたことも無理からぬ事である。夏子が自らの不遇、社会の不平等を痛切に感じ始めていても全く不思議ではない。
明治二十五年九月、夏子は萩の舎の稽古を休んでいる。この前の月、歌子から話があった女学校への就職の話が立ち消えになっていた。恋愛にからむ評判もあり夏子と萩の舎との関係はしだいに冷えてゆく。
夏子の花鳥風月を基調とした詠草を淡々と読み流していて、ふいに異様な歌に出会うことになるのが、この年の十月の詠草である。それは十月に萩の舎の稽古に提出された詠草であり、二八首ほどが自由詠として組まれている。おそらく題は自分でつけたと思われる。
その中に「車」と題して
時にのる人とはしるし馬車みやこ大路にとどろかしつつ
車井のめぐればこそはつるべ縄たかきいやしきある世なりけれ
明治二十年代、「ときにのる人」とはさしずめ、ヰタ・セクスアリスに登場した金井君に象徴されるような階層をさすのであろう。知識も権力も独占して、その結果、莫大な財産を蓄えることが可能な人々が、着飾って大路を恣に馬車を走らせてゆく。それに比べて、明日の米にも事欠く自分の現実との落差。ここに表明されているものが、意識的な階級意識とはいえないまでも、そういう社会を「たかきいやしきある世」であると強く批判している姿勢は明白である。この二首は紛れもない社会詠であり、旧態然とした花鳥風月の題詠からは脱している。その歌いぶりはいかにも理屈くさく、ごつごつとしており「車井」の比喩もこじつけた感がぬぐえない。旧派の美点である、調べの美しさは失われている。しかし、ここには、二年後に「にごりゑ」「おおつごもり」を執筆することになる夏子の社会意識が歌の形をとって萌芽している。決して成功している作品ではないが、ようやく題詠的虚構から脱しようとする歌人夏子の自立への模索をみてもよいのではないだろうか。
 明治二六年一月、前年に「経づくえ」「埋もれ木」などを発表して十円ほどの原稿料を得ていたが、これらの作品は文壇ではそれほど話題にならなかった。さらなる新作のため、頭を悩ますことになる。そういう事情からか、夏子は一月十一日以来、萩の舎の稽古を長く欠席していく。
 そんな中、耳に入ってきたのが師匠中島歌子の醜聞であった。
明治二六年二月二七日の日記から
…略。談は中島の師が上なり。品行日々にみだれて吝いよいよ甚だしく、歌道に尽くす心は塵ほども見えざるに弟子のふえなんことをこれ求めて我身しりぞきてより、新来の弟子二十人にあまりぬ。よめる歌はといへば、こぞの稽古納めに歌合わせしたる十中の八九はてには整はず、語格も乱れて歌といふべき風情はなし。他に他の大人なかりしこそよけれ なげかはしきおとろへかたと聞こゆ。
「品行日々にみだれて」の内容はつぶさではないが、昨年の夏、桃水との関係を歌子から批判され、煮え湯を飲まされた夏子にとっては師自身の品行の乱れは許し難いという感情があったのだろう。歌塾のありかたにも憤慨している。当時、歌の習得は女子にとって、嫁入り前の芸事のような意味合いもあったようだ。普段からの付届けに始まり、様々な名目での謝礼。そのため、弟子の数は多いほど、私腹が肥やせるというわけである。父親から清貧の教えを受けてきた夏子にとってはがまんならない俗世間のありさまであった。夏子は、こういう世界で歌の修行を六年間続けてきた。稽古の日には、華族出身の婦人たちにひたすら頭を下げて、茶菓子を出し、宴席では酌をしてきたのである。人一倍プライドの高い夏子がその世界が風流、優美とは全く別のものであることに気づかぬはずがない。
二月九日の日記には
さしもその社会にたち交じりて、あさましく、いちはしきことを見聞きなれぬる身には歌よむ人とさへいへば、みだりがはしく、ねじけたる人の様におもはれて
と書いている。優美、風流を歌いながら、歌詠みの世界とは、虚栄と汚濁にまみれた社交の場でしかないと夏子は、冷静に認識している。夏子の実社会へ対する辛辣な目が内面化してゆく過程が知られる。また、非難は歌子の歌そのものに向けられる。「語格も乱れて歌といふべき風情はなし」とする激しい言葉には、萩の舎で学んできた詠法への反意がむき出しになっている。夏子は萩の舎から距離をおいて自分の詠法を作り出そうと模索を始める。しかし、残された時間はわずかであった。