五十子尚夏 第一歌集『The Moon Also Rises』
遠雷に微か震える聴覚のどこかにあわれバイオリン燃ゆ
五十子尚夏の『The Moon Also Rises』には多彩なノイズが溢れている。華やかな固有名詞の氾濫はこの作者が世界から聴き集めた美しいひかりの残響かも知れない。それは、世界をきららかに演出してみせるが、すべての事象は錯覚にすぎないということも明かしてもいるようだ。それにしてもその際立った美意識はひとつの世界を創造する力としてくきやかに起動している。冒頭に引いた歌も実に美しい。この美意識は、遠くは前衛短歌に通底するであろうし、また、この世代に共通する終末観も漂わせて切ない。
私のただ一人なる客船があなたの運河深くへとゆく
誰しもの心にひとつあるという万華鏡へと夕陽を落とす
平成がこのまま閉じてゆくことを告げてさみしい住之江競艇
どちらかというと饒舌な歌が先行するなかで、しずかなポエジーの立つ歌につい立ち止まる。1首目、少し解釈に迷うが私ひとりが乗る客船か。その客船がしずかに運河に入ってゆく。恋人を深く思う時間。あるいは恋人を運河に比喩した性愛の歌としても読めるところが美しい。2首目は、この作者の歌へのアプローチのしかたを語っているようで、はっとした。万華鏡には小さな色紙の欠片が詰め込まれている。そんな万華鏡がだれの心にもひとつあるというのだ。それに夕陽を落とすとき、万華鏡はうつくしい色彩を放って輝くことだろう。それは一日の最後のかがやき。ちょうど万華鏡のように様々な色の言葉にひかりを当てながらこの歌集は編まれた気がする。3首目、平成は、おそらく作者が育ってきた少年時代から青春期をおおう時代であったろう。一つの時代への決別の思いが「住之江競艇」という少しうらさびれた場所とよく共鳴している。ここでの固有名詞は、一首のゆるやかな情感を回収するのにうまく機能している。こころと言葉とがよく絡み合って読者をひきつける力を持っている。
シチリアのレモン畑の色彩を知らぬトム・ヘイゲンの憂鬱
赤く気の滅入る夜もあり一匹の名もなき猫を遊ばせている
温もりをやがて失う缶珈琲額に当てている駐車場
1首目のように世界に言葉を飛ばしてゆく歌は楽しい。言葉からイメージを誘い出すある種、題詠的な手法といえようか。意味から解かれた自在な歌の世界。しかし、この歌では結句を「トム・ヘイゲンの憂鬱」とすることで、かえって余計な意味が付着した気がしないでもない。2首目は、そうした憂鬱の内実を「赤く気の滅入る」と丁寧に描写し、猫と遊ぶ動作をいれて手触りのある歌になっている。3首目も、缶珈琲と駐車場という具体がよく働いていて、作者の心情がそのまま手渡されている。
幾たびも不意に目覚める明け方の夢の続きにいるみたいでさ
この歌集は「夢の続きにいるみたい」な世界の浮遊感を磨かれた美意識でさまざまに変奏しつつ形象化してみせた。それでは夢から覚めたあとはどんな世界が広がるのか、楽しみに待とう。
加藤治郎第11歌集『混乱のひかり』
栞紐はねのけて読む冬の朝 歌はひかりとおもうときあり
加藤治郎の第11歌集『混乱のひかり』はタイトル通り、ひかりに充ちている。冒頭に引いた歌には作者の歌に託する希望がひかりを生んでいる。混沌とした現代社会の現状に言葉で切り込むように挑みつつ、そしてその言葉によって傷めつけられながらそれでも前を向いている。言葉はどこまで現実にとどくのか、さらに美の高みにいけるのか。あるいはそれは虚無にすぎないのか。はたして、言葉は、はかなさから人を救うことができるのか。言葉の虚空にはばたくことの可能性と不可能性の境界に歌が生まれている。歌集では多様な世界の事件にコミットしてゆく。たとえば2015年、イラクで起きた邦人殺害事件。
アイリスの花瓶に水のあふれゆくうすやみにふれている首すじ
蒼穹の処刑の邦人語らずに忘れることも語り尽くし消え去ることも
撮影の男は何か注文をつけただろうか、光る砂粒
1首目、日常の時間にさしこんでくる不穏さを花瓶から溢れる水に暗喩し、うすやみにふれる首すじに身体化する。2首目、3首目はまさに殺害される瞬間に言葉で分けいってゆく。2首目は、殺害される当事者の測りがたい内面を思う方の無力感が伝わる、3首目の想像力の動きは生々しくて臨場感があふれ思わず立ち止まる。言葉が重みをもって現実の内側にはいりこんでいる。
握手をしよう花の手は握手をしよう砂の手はすこし痛いが
死は予告されていながそこにあるザザザザダダダ空爆の日だ
ころがっているのは何か(見るべきだ)ブリキの兵士三角あたま
連作後半では、ISへの空爆を詠む歌がつづく。混迷する状況を実況的に詠む。1首目、取引と裏切りと殺戮の連続をアイロニーを込めた握手という比喩に託す、2首目、3首目、空爆、あるいは地上戦の無惨を特別な修辞をつかわずにどちらかというと無機的な口調で詠う。やや饒舌で滑っている印象がある。事態の悲惨さよりもむしろ作者側の得体のしれない高揚感のようなものに触れている気がする。言葉が加速しすぎると祝祭感のようなものが生成されてしまうのかもしれない。言葉のきりぎしだ。それを踏み越えながら粘り強く外界にコミットしてゆく。こうした外界への想像力が自身に向けられたとき歌の表情は一変する。
いつかきっとなにもかなしくなくなって朝の食パン折り曲げている
こうした絶望的なつぶやきこそが、圧倒的な世界の暴力と対峙したときの反応として本当だろう。ここに作者のそしてわれわれの現在が語られている。こうした言葉とであったとき、初めて私たちは自身の悲しみに気づくことになる。
心と言葉は同じはやさで朽ちてゆく原っぱの工具箱のベンチ
洪水は言葉のなかに洪水はわたしの口の中に始まる
あさの光の切れはしが床にある燃え尽きたのは俺の言葉だ
さきほど挙げたように多様な事象を、意匠を凝らした手法で詠いつつ、その言葉に冷静に懐疑している作者がいる。1首目、どのように存在しようと心は滅びるし、言葉も有限だ。2首目、3首目、世界は混沌としているが、一方で自身の言葉は洪水のように混乱を引き起こしている。では、もう一歩退いてこの作者の言葉はどこから生まれるのだろうか。
幾本も錆びた線路が横たわる俺の居場所はおれの体だ
どこにでもわたくしはいる原っぱにビニールシートを広げていれば
1首目、現実的には錆びた肉体を居場所として生きるしかないが、内面的には2首目のような全能感に満ちた世界がこの作者の自意識を支えているようだ。どんなに混乱しているように見えても作者はいつもひかりに包まれている。
さくらんぼこばむものなどなにもないひかりにふれるときのやさしさ
きっと光の裏側はもっとまばゆい或る夏の日にわたしは歌う
りんかくはひかりとおもう食卓の皿に盛られて朝のレタスは
日が差して貸しコンテナのかたかたと猫があそんでいるのかい
冒頭に挙げた歌はじめ、歌集にはひかりを詠んだ歌がたくさんある。どの歌も至福感に満ちていて蜜のように甘くて美しい。こうした歌を読んでいると、まさに「歌をひかり」と思えてしまう。これらの歌は生来のこの作者の向日性を現していよう。それは身近な他者へのほがらかな視線となって結実してくる。性愛の歌はどれもよろこびに溢れ清潔で陰りがない。また、この歌集に登場してくる家族への視線もあたたかだ。
たけのこほろほろ苦い就活のバックを春の街路に運べ
でかいバッグにモバイルPCぶちこんで不機嫌だなあ子は出て行けり
母がいてほかにはだれもいないから実家というのは果樹園なんだな
1首目は就活をする娘をあたたかく見送っている。2首目は屈託を抱えた息子の姿をおおらかな口ぶりで詠む。3首目は、独り暮らしの母を詠むがその詠みぶりは天上的に明るい。実家はいつでも帰っていける幸福な幼年時代を象徴している。この果樹園こそ作者の言葉の果樹園だろう。こうしたあたたかで深い家族の歌をもっと読みたい。
あとがきでライト・ヴァースについて言及している。その第一の定義に「私の苦を負わない歌」を挙げている。まさに加藤治郎の歌はしめっぽさを払拭したライト・ヴァースにちがいない。
近代短歌を読む会 第23回 齋藤史『秋天瑠璃』
いはれなく街の向こうまで見えてくる さよならといふ語をいふときに
齋藤史『秋天瑠璃』
「近代短歌を読む会」も今回で23回になる。
今年の5月から齋藤史の『魚歌』、『ひたくれなゐ』を読み継いできた。今回はその三回目にあたり『秋天瑠璃』を取り上げる。巻頭に上げた歌は、平成2年の「氷菓」から引いた。平成2年には斎藤史は82歳、その2年前には帯状疱疹を患ってかなりな苦境に遭遇している。それにしてもこの歌の明るさはどうだろう。言葉はあくまでも軽く、思いは深く、そして精神性は高いところへと飛翔している。
その歌の出発にあったモダニズムの軽やかさをそのまま受け継いだ口語文体のなかに、人生の歳月に濾過されたさまざまな労苦の軌跡のすべて、そして生涯をはるかにふり返る心境を明るく澄んだ景として、しなやかに詠み込んでいる。また、一首にながれる流離感も見逃せないだろう。故郷を持たないものの乾いた寂寥感である。
自分の心の内部に一冊の絵本がある。外界世俗に汚れない絵本。色彩もあれば夢もそこなわれないで耐へてきたそれは、さあ、ごらん下さいと人の前に差し出して晒すやうなものでなく、どこまでも自分のなかにひそめて持つてゐるものなのだ。しかし、それをぱたんと閉じる表紙に、人にさしのぞかれる事がある。或いはそれは人生の終わる時かもしれないが――。 齋藤史『現代短歌入門』より
さしずめ、この巻頭歌あたりはその一冊の絵本からもれた一筋のひかりかもしりない。
幼い時から職業軍人だった父の転勤にしたがって各地を転々とする。そうした生い立ちがこの作者からすっきりと土俗的な湿り気を払拭している。その環境がこの人の思考を、むやみな幻想へ向かわせず、日本的な土俗や過去に回帰せず、知的で冷静な理性を終生にわたってもたらしているようだ。「見えるもの」から越えて「見えないもの」を言葉にする。このあたりは前川佐美雄たちの歌風と一致している。その方法は観念を越えて説明なしに、いきなりものごとの中心をわしずかみしてしまう粗暴さと大胆さにあらわれる。
風船のふくらみゆくを人見をりある極限を待つごとくして
眺めよき屋上に来てここより先は空へ翔ぶもの地へ墜ちるもの
一撃にて終わらざるものこれでもか、これでもかとて生木(なまき)斧打つ
野を貫(ぬ)きて青き狂気のごとくありし川来てみればすでに錆びたり
婚姻色の魚らきほひてさかのぼる 物語のたのしさはそのあたりまで
1首目、2首目、生きることの核心をそのまま言い当てたような普遍性、3首目の暴力性は『魚歌』時代から変わらない。自らの中の狂気に触れて言葉がおののいている。4首目になると、そういう自己を客観視してゆるやかな韻律に表象している。単なる自然詠を越えて存在の本質を見定めているようだ。5首目はシニカルな歌。自分には恋の歌は一首もないという作者は、どこまでも冷めてクールだ。あまい感傷や幻想をこのようにして断ち切ることで、強い生への意志を感じる。
そして老年の史がたどり着いた苦いユーモア。そこに戦前、戦中、戦後をとおしてたったひとりの道を貫いてきた稀有な女性歌人の時間の厚みと自信のようなものも香り立つ。
葬式代をすこし貯めますといふときに苦き税吏がふとわらひたり
この病気では死にませんよといふなれば生きる算段をせねばならぬ