眠らない島

短歌とあそぶ

五十子尚夏 第一歌集『The Moon Also Rises』

遠雷に微か震える聴覚のどこかにあわれバイオリン燃ゆ     

 五十子尚夏の『The Moon Also Rises』には多彩なノイズが溢れている。華やかな固有名詞の氾濫はこの作者が世界から聴き集めた美しいひかりの残響かも知れない。それは、世界をきららかに演出してみせるが、すべての事象は錯覚にすぎないということも明かしてもいるようだ。それにしてもその際立った美意識はひとつの世界を創造する力としてくきやかに起動している。冒頭に引いた歌も実に美しい。この美意識は、遠くは前衛短歌に通底するであろうし、また、この世代に共通する終末観も漂わせて切ない。

私のただ一人なる客船があなたの運河深くへとゆく       

誰しもの心にひとつあるという万華鏡へと夕陽を落とす   

平成がこのまま閉じてゆくことを告げてさみしい住之江競艇    

どちらかというと饒舌な歌が先行するなかで、しずかなポエジーの立つ歌につい立ち止まる。1首目、少し解釈に迷うが私ひとりが乗る客船か。その客船がしずかに運河に入ってゆく。恋人を深く思う時間。あるいは恋人を運河に比喩した性愛の歌としても読めるところが美しい。2首目は、この作者の歌へのアプローチのしかたを語っているようで、はっとした。万華鏡には小さな色紙の欠片が詰め込まれている。そんな万華鏡がだれの心にもひとつあるというのだ。それに夕陽を落とすとき、万華鏡はうつくしい色彩を放って輝くことだろう。それは一日の最後のかがやき。ちょうど万華鏡のように様々な色の言葉にひかりを当てながらこの歌集は編まれた気がする。3首目、平成は、おそらく作者が育ってきた少年時代から青春期をおおう時代であったろう。一つの時代への決別の思いが「住之江競艇」という少しうらさびれた場所とよく共鳴している。ここでの固有名詞は、一首のゆるやかな情感を回収するのにうまく機能している。こころと言葉とがよく絡み合って読者をひきつける力を持っている。

シチリアのレモン畑の色彩を知らぬトム・ヘイゲンの憂鬱    

赤く気の滅入る夜もあり一匹の名もなき猫を遊ばせている     

温もりをやがて失う缶珈琲額に当てている駐車場    

1首目のように世界に言葉を飛ばしてゆく歌は楽しい。言葉からイメージを誘い出すある種、題詠的な手法といえようか。意味から解かれた自在な歌の世界。しかし、この歌では結句を「トム・ヘイゲンの憂鬱」とすることで、かえって余計な意味が付着した気がしないでもない。2首目は、そうした憂鬱の内実を「赤く気の滅入る」と丁寧に描写し、猫と遊ぶ動作をいれて手触りのある歌になっている。3首目も、缶珈琲と駐車場という具体がよく働いていて、作者の心情がそのまま手渡されている。

幾たびも不意に目覚める明け方の夢の続きにいるみたいでさ  

この歌集は「夢の続きにいるみたい」な世界の浮遊感を磨かれた美意識でさまざまに変奏しつつ形象化してみせた。それでは夢から覚めたあとはどんな世界が広がるのか、楽しみに待とう。

加藤治郎第11歌集『混乱のひかり』

栞紐はねのけて読む冬の朝 歌はひかりとおもうときあり   

 加藤治郎の第11歌集『混乱のひかり』はタイトル通り、ひかりに充ちている。冒頭に引いた歌には作者の歌に託する希望がひかりを生んでいる。混沌とした現代社会の現状に言葉で切り込むように挑みつつ、そしてその言葉によって傷めつけられながらそれでも前を向いている。言葉はどこまで現実にとどくのか、さらに美の高みにいけるのか。あるいはそれは虚無にすぎないのか。はたして、言葉は、はかなさから人を救うことができるのか。言葉の虚空にはばたくことの可能性と不可能性の境界に歌が生まれている。歌集では多様な世界の事件にコミットしてゆく。たとえば2015年、イラクで起きた邦人殺害事件。

アイリスの花瓶に水のあふれゆくうすやみにふれている首すじ  

蒼穹の処刑の邦人語らずに忘れることも語り尽くし消え去ることも  

撮影の男は何か注文をつけただろうか、光る砂粒       

 1首目、日常の時間にさしこんでくる不穏さを花瓶から溢れる水に暗喩し、うすやみにふれる首すじに身体化する。2首目、3首目はまさに殺害される瞬間に言葉で分けいってゆく。2首目は、殺害される当事者の測りがたい内面を思う方の無力感が伝わる、3首目の想像力の動きは生々しくて臨場感があふれ思わず立ち止まる。言葉が重みをもって現実の内側にはいりこんでいる。

握手をしよう花の手は握手をしよう砂の手はすこし痛いが   

死は予告されていながそこにあるザザザザダダダ空爆の日だ

ころがっているのは何か(見るべきだ)ブリキの兵士三角あたま  

 連作後半では、ISへの空爆を詠む歌がつづく。混迷する状況を実況的に詠む。1首目、取引と裏切りと殺戮の連続をアイロニーを込めた握手という比喩に託す、2首目、3首目、空爆、あるいは地上戦の無惨を特別な修辞をつかわずにどちらかというと無機的な口調で詠う。やや饒舌で滑っている印象がある。事態の悲惨さよりもむしろ作者側の得体のしれない高揚感のようなものに触れている気がする。言葉が加速しすぎると祝祭感のようなものが生成されてしまうのかもしれない。言葉のきりぎしだ。それを踏み越えながら粘り強く外界にコミットしてゆく。こうした外界への想像力が自身に向けられたとき歌の表情は一変する。

いつかきっとなにもかなしくなくなって朝の食パン折り曲げている   

 こうした絶望的なつぶやきこそが、圧倒的な世界の暴力と対峙したときの反応として本当だろう。ここに作者のそしてわれわれの現在が語られている。こうした言葉とであったとき、初めて私たちは自身の悲しみに気づくことになる。

心と言葉は同じはやさで朽ちてゆく原っぱの工具箱のベンチ      

洪水は言葉のなかに洪水はわたしの口の中に始まる     

あさの光の切れはしが床にある燃え尽きたのは俺の言葉だ     

 さきほど挙げたように多様な事象を、意匠を凝らした手法で詠いつつ、その言葉に冷静に懐疑している作者がいる。1首目、どのように存在しようと心は滅びるし、言葉も有限だ。2首目、3首目、世界は混沌としているが、一方で自身の言葉は洪水のように混乱を引き起こしている。では、もう一歩退いてこの作者の言葉はどこから生まれるのだろうか。

幾本も錆びた線路が横たわる俺の居場所はおれの体だ    

どこにでもわたくしはいる原っぱにビニールシートを広げていれば    

 1首目、現実的には錆びた肉体を居場所として生きるしかないが、内面的には2首目のような全能感に満ちた世界がこの作者の自意識を支えているようだ。どんなに混乱しているように見えても作者はいつもひかりに包まれている。

さくらんぼこばむものなどなにもないひかりにふれるときのやさしさ  

きっと光の裏側はもっとまばゆい或る夏の日にわたしは歌う   

りんかくはひかりとおもう食卓の皿に盛られて朝のレタスは  

日が差して貸しコンテナのかたかたと猫があそんでいるのかい   

 冒頭に挙げた歌はじめ、歌集にはひかりを詠んだ歌がたくさんある。どの歌も至福感に満ちていて蜜のように甘くて美しい。こうした歌を読んでいると、まさに「歌をひかり」と思えてしまう。これらの歌は生来のこの作者の向日性を現していよう。それは身近な他者へのほがらかな視線となって結実してくる。性愛の歌はどれもよろこびに溢れ清潔で陰りがない。また、この歌集に登場してくる家族への視線もあたたかだ。

たけのこほろほろ苦い就活のバックを春の街路に運べ   

でかいバッグにモバイルPCぶちこんで不機嫌だなあ子は出て行けり   

母がいてほかにはだれもいないから実家というのは果樹園なんだな  

 1首目は就活をする娘をあたたかく見送っている。2首目は屈託を抱えた息子の姿をおおらかな口ぶりで詠む。3首目は、独り暮らしの母を詠むがその詠みぶりは天上的に明るい。実家はいつでも帰っていける幸福な幼年時代を象徴している。この果樹園こそ作者の言葉の果樹園だろう。こうしたあたたかで深い家族の歌をもっと読みたい。
あとがきでライト・ヴァースについて言及している。その第一の定義に「私の苦を負わない歌」を挙げている。まさに加藤治郎の歌はしめっぽさを払拭したライト・ヴァースにちがいない。

近代短歌を読む会 第23回 齋藤史『秋天瑠璃』

いはれなく街の向こうまで見えてくる さよならといふ語をいふときに

                                                                 齋藤史『秋天瑠璃』  

「近代短歌を読む会」も今回で23回になる。 
今年の5月から齋藤史の『魚歌』、『ひたくれなゐ』を読み継いできた。今回はその三回目にあたり『秋天瑠璃』を取り上げる。巻頭に上げた歌は、平成2年の「氷菓」から引いた。平成2年には斎藤史は82歳、その2年前には帯状疱疹を患ってかなりな苦境に遭遇している。それにしてもこの歌の明るさはどうだろう。言葉はあくまでも軽く、思いは深く、そして精神性は高いところへと飛翔している。
その歌の出発にあったモダニズムの軽やかさをそのまま受け継いだ口語文体のなかに、人生の歳月に濾過されたさまざまな労苦の軌跡のすべて、そして生涯をはるかにふり返る心境を明るく澄んだ景として、しなやかに詠み込んでいる。また、一首にながれる流離感も見逃せないだろう。故郷を持たないものの乾いた寂寥感である。

 

 自分の心の内部に一冊の絵本がある。外界世俗に汚れない絵本。色彩もあれば夢もそこなわれないで耐へてきたそれは、さあ、ごらん下さいと人の前に差し出して晒すやうなものでなく、どこまでも自分のなかにひそめて持つてゐるものなのだ。しかし、それをぱたんと閉じる表紙に、人にさしのぞかれる事がある。或いはそれは人生の終わる時かもしれないが――。     齋藤史『現代短歌入門』より

 

さしずめ、この巻頭歌あたりはその一冊の絵本からもれた一筋のひかりかもしりない。

幼い時から職業軍人だった父の転勤にしたがって各地を転々とする。そうした生い立ちがこの作者からすっきりと土俗的な湿り気を払拭している。その環境がこの人の思考を、むやみな幻想へ向かわせず、日本的な土俗や過去に回帰せず、知的で冷静な理性を終生にわたってもたらしているようだ。「見えるもの」から越えて「見えないもの」を言葉にする。このあたりは前川佐美雄たちの歌風と一致している。その方法は観念を越えて説明なしに、いきなりものごとの中心をわしずかみしてしまう粗暴さと大胆さにあらわれる。

 

風船のふくらみゆくを人見をりある極限を待つごとくして 

  
眺めよき屋上に来てここより先は空へ翔ぶもの地へ墜ちるもの

   
一撃にて終わらざるものこれでもか、これでもかとて生木(なまき)斧打つ

   
野を貫(ぬ)きて青き狂気のごとくありし川来てみればすでに錆びたり

   
婚姻色の魚らきほひてさかのぼる 物語のたのしさはそのあたりまで

  
 1首目、2首目、生きることの核心をそのまま言い当てたような普遍性、3首目の暴力性は『魚歌』時代から変わらない。自らの中の狂気に触れて言葉がおののいている。4首目になると、そういう自己を客観視してゆるやかな韻律に表象している。単なる自然詠を越えて存在の本質を見定めているようだ。5首目はシニカルな歌。自分には恋の歌は一首もないという作者は、どこまでも冷めてクールだ。あまい感傷や幻想をこのようにして断ち切ることで、強い生への意志を感じる。

そして老年の史がたどり着いた苦いユーモア。そこに戦前、戦中、戦後をとおしてたったひとりの道を貫いてきた稀有な女性歌人の時間の厚みと自信のようなものも香り立つ。

 

葬式代をすこし貯めますといふときに苦き税吏がふとわらひたり

  
この病気では死にませんよといふなれば生きる算段をせねばならぬ

   
疲労つもりて引き出ししヘルペスなりといふ八十年生きれば そりやあなた  

松村正直『紫のひと』

てのひらの奥に眠れるわがこころ呼び覚まさんと強くこすりぬ   
 
この歌集は2017年から2018年の2年間に総合誌等の発表された作品だけを収録している。短い時間のなかで集中的に作られた歌群はたがいに共鳴し合あうことで、濃密な情感を醸している。それは歌物語を読んでいるような甘い興奮をもたらしてくれる。登場人物の心の襞に迷い込むような切迫感がスリリングだ。
作者が意図しているのはおそらく「こころの仕事」だろう。いままで外界に向けていた視線を自己の内部にむけることでそれまで見えていなかった自身の原野のようなものを引き出している。自己の内部を覗きこんでも空虚しかでしかない。作者はそこに「君」という他者を置くことで、君をとおして立ち上がってくる「私」の多様な感情やイメージを言葉におこしてゆく。そうすることで、巻頭にあげたような「わがこころ」が初めて可視化されてくる。この歌集にはそうした内面をみせる仕掛けが巧妙にほどこされ、劇的な緊張感をみなぎらせている。
 
絵のなかの椅子に座りて悲しみのあるいは喜びの紫のひと   
絵のなかのあなたに逢いにゆく朝は木々のみどりも微笑むごとし  
紫のひとは部屋から出て行きぬ絵のなかに私ひとり残して  
 
一枚の絵という物語のなかに存在する「紫の人」。その絵の中と絵の外とがいつのまにか溶解して境界をなくし、あるいは反転してゆく。主体は絵の中というもうひとつの現実をえることで融通無碍の言葉を同時に獲得する。言葉はすなわち自分自身でもあるわけだ。
 
上流へむしろながれてゆくような川あり秋のひかりの中を   
めぐりゆく一生 ( ひとよ )のうちの一瞬をかがやく水か滝と呼ばれて   
アシと呼びヨシと呼ぶこの葦原のなかには見えぬオオヨシキリの巣  
蝉の鳴く確かな空はもうなくて大地の裂け目をひたすらにゆく    
 
ここに引いた歌は、いづれも外界に目が向けられている。1首目は秋の川のかがやきを美しく捉えている。上句の比喩が川のひかりを神聖なものしている。2首目は滝、滝の歌は集中に多く詠まれている。なだれ落ちる滝の姿はまるで肉体のようでもあり、またたたくまに過ぎゆく時間の残像のようでもある。3首目は舟遊びする連作のなかの一首であるが、葦の呼び名が替わることでなにかざらつき感をすくいとっている。見えない鳥の巣もどこか不穏だ。4首目は鍾乳洞を歩く連作のなかの一首。大地の裂け目という表現が生々しい。ここに表象されている自然は主観にちかいところに引き寄せられて詠まれている。これらの自然はまるで肉体のようでもあり、外界でありながら内側に食い込むような粘りがある。

体幹がまずは ( ほめ )きてそののちを指の先まで花ひらきたり  
もののように人を扱うかなしみを愛と呼び時に憎しみと呼ぶ   
あふれでてゆっくり零れる水のつぶ見ており君の正面にいて   
 
さきほどの自然から、これらの官能性へゆくのは必然のような気がする。一首目は桜の描写だがまるで情欲そのものようにも読める。2首目は特に説明も不要なほどあっさりと性愛を詠んでいる。3首目は、「君」をとおしてみずからの性の高揚感を見せている。
ここで形を与えられているのはやはり愛ということだろう。生はいつも死によって傷つけられる。その有限性を越えるのが愛の陶酔感だがそれも一瞬のことであり、存在することは儚い。この歌集で一貫して問われているのは生の一回性ということのような気がする
 
やがてみな死ぬと決まっている日々の、それでも朝のシリアルを食む  
生まれかわることはないからゆっくりと、ただゆっくりとゆうぐれは死ぬ  
一度しかない人生の一度目を生きて迷えり昼のメニューに   
目を閉じてのぼるひばりよ永遠と呼ぶものどれも永遠でなく    
 
われわれは限りある生を生きてゆくしかないが、だからこそもっと遠くへ行きたい。世界の外へならどこへでも。そんなせつない思いがこの歌集につややかな言葉をひらいている。
 
抱くことも抱かれることも秋だからつめたい樹々の声にしたがう
 

門脇篤史 第一歌集 『微風域』

夕闇にジャングルジムはいくつもの立方体を容れて立ちをり     
 
 公園にさしかかったときだれでも目にするジャングルジム。子どもの遊具でありながらこれほど潔癖にその属性をぬぐい取られて、無機質に、そして美しく詠まれたジャングルジムの歌を知らない。ここには明確なこの作者の言語化ということへの方法意識が伺われる。
 日常の猥雑な世界から事物を恣意的に抜き出して、それを言語化することで、その事物は日常性から放たれて別の表情になる。脱日常、脱主観への飛翔。あるいは悲傷。それが自分の詩学であることにきわめて自覚的な作品だ。ものの存在感が現実以上の現実性をもって迫ってくる。おそらく作者はそういう純粋な世界にあこがれているし、それを自らの言葉で可視化しょうとしている。
 
ハムからハムをめくり取るときひんやりと肉の離るる音ぞ聞こゆる   
捨つるため洗ふ空き缶水道の水を満たせばふたたび重し    
天体に触れたるやうなしずけさでボイルドエッグ剝く朝のあり  
会議室を元の形に戻しをり寸分たがはずとはいかねども    
 
物への接近を試みる歌はこの歌集の根幹をなしている。主観や感情そのものはおそらくこの作者には手ごたえがないのだろう。それよりも物を知覚することでせり上がってくる実在感や、違和感、充足感によってはじめて自分の内部が照らし出される歓びがあるようだ。
1首目のハムの歌では、その剥がす音を可視化することで、ハムの生々しい質感を伝えており、そこにゆれる感情が見える。重厚な文語が効果的だ。
二首目、空き缶に水を容れるとふたたび重くなるのは当たり前だけど、ものの質の変容ということに感覚を集中させていて新鮮。3首目、ひと粒のゆでたまごをこんなコスモロジーの世界に高めてしまう技に感服した。
そして、4首目、これもなんでもない場面だが作者のこだわりの場所がおもしろい。空間が変容しそしてまたもとに戻る、会議室という空間が人が関わることで変質することへの違和感。作者はそこから使用感をできるだけ拭いさろうとする。ここにも、この作者の脱日常性への志向があるように思う。
 
原付を追ひ抜くせつな吾にきざす言語化といふ仄暗きもの  
 
 この歌は自らの方法を率直に詠んでいて注目した。日常にあふれるもの、あるいはだれにも見えていない不可視な状態を言語化することで可視化する。そこにほのかなポエジーが立ち上がる。それをこの歌では「仄暗きもの」と呼んでいる。言葉をあつかうのは本来「仄暗」くて後ろめたいものだし、そういう意味では孤独な世界のひとり遊びかもしれない。しかし本来、詩とは孤独な世界の住人のためのものだ。
 
世界から隔絶されたこの場所でジェットタオルの風に吹かれて  
たぶんもう飛べないだらういらいらと餃子の羽を菜箸で折る   
死者ばかり増ゆる世界に住んでゐてぼくはただただ生きねばならぬ     
わたくしをぢっと薄めてゆく日々に眼鏡についた指紋を拭ふ   
 
この歌集全体をおおっている生きることへの憂愁のような霧は、いやがうえにも孤独感を煽るし、無目的な存在のしかたを際立たせている。そういう隔絶のしかたはあるいは作者には慰めかもしれない。
しかし、さらにこの作者には深い裂け目があってそれが実存的に作者を揺さぶるとき歌にまた違った表情がゆらゆらと現れる。クールに見える作者のなかに押さえつけられている傷や不安や怒り。それがさらに言語化されていけばどんな歌にかわるのだろう。これからにますます注目したい。
 
権力の小指あたりに我はゐてひねもす朱肉の朱に汚れをり
 
故郷から届く馬鈴薯いくつかは鍬の刺さりし跡を残して
    
ふたりゆゑかくも孤独な真夜中は夜露に濡るる楡を思へり
   
くれなゐのホールトマトの缶を開けいつかの夏を鍋にぶちまく  

永田愛  第一歌集 『アイのオト』


永田愛の第一歌集「アイのオト」は実にうつくしい。短歌を作ることと、生きることが重なる悦びをまっすぐに伝えてくれる。これほど構えずに読ませる歌集がこの時代に可能なのかと驚きもあった。最近、歌集を読むときには、どうしても発想の斬新さや、鋭い表現や、取り合わせの爆発力のような技に目が行ってしまう。そして、そんな自分が寂しくなってしまうことも度々だ。永田愛の歌集は自身の純粋なこころだけで言葉を編みおえている。
モチーフは多岐にわたる。音楽があり、職場がある。そして生まれながらに背負った障害を、あるいは家族や周囲との軋轢を、ごまかさずに丁寧にいくども詠んでいる。詠むことで、様々な心情が自然に浄化されていくようだ。その長い時間を読者はともに追体験する。すると得も言われぬ感動が読む方にもあふれてくるのが不思議だ。
 
最初に、技からは遠いように書いたが、これはとても洗練された文体の力によるのだろう。過剰でもない、そして淡くもない。どちらかというと芯のとおった強い自己表出と、やわらかな心情表現のバランスは歌集全体をとおして絶妙と思う。
 
吉野川橋を渡って会いにゆくあなたは川の南岸のひと    
トンネルの出口は風の吹くところきみは帽子をかるく押さえる   
いつの日かかならず行くって決めている好きな電車に好きなだけ乗り   
 
1首目の歌は、ずいぶん前にどこかで読んだ記憶がある。さわやかな若々しい相聞歌。吉野川という自然の地形もいいし、南岸のひと、という表現であこがれの思いがすなおに流れている。2首目は、ある瞬間をとらえて人物のシルエットが生き生きしている。永田愛はこうした細やかなしぐさで、キャラクターを実にうまく立ち上げて魂を吹き込む。
3首目は、歌集後半の歌。なんの衒いもなく気持ちをまっすぐに叙述する。生きることへの希望が言葉を強く打ち出す。
 
永田の歌は、苦しい場面を詠んでいても、言葉が捻じれていないので心の風通しがいい。
そう詠むことで自分を励ましているのかもしれないが。
 
足のことを理由に終えた恋ありき恋をうしなうことも個性か   
詫びるように生きてゆくのはくるしいよゆうべの段をぐらぐらのぼる   
冬の夜の空のたかさが苦手なりこの世にのこる覚悟が足りず    
 
生まれながらの足の不調はこの作者の人生に大きな影を落とす。それは自身ではどうにもならぬ不条理そのものだが、傷つく自分をそれ以上にも、以下にも見せずありにのままに受け入れる。
そして2首目のように生きることの苦しみを率直に詠みあげている。ここには等身大の作者がいて、読む方も同じ境遇になって悲しむ。どうしてそれが可能か。この歌は「詫びるように」という比喩と、「ぐらぐらのぼる」という体感がみごとに響き合っている。ここにさりげないそして的確な修辞が織り込まれていることに気づかせられる。
3首目はすごみのある秀歌だ。「この世にのこる」というフレーズが突き刺さってくる。絶唱といっていいかもしれない。
 
晩秋のようなあかるさ子を知らぬわたしの腕がみどりごを抱く  
来世とはこんなものかもしれなくて児と走らせる玩具の電車
 
妹の子への思いも複雑さを孕みながら、やはり無垢な幼子にこの作者の純粋な魂が共振しはじめる。この世に生まれたばかりの清らかな生に触れることや、あぶなかしさを敏感に感じ取る感性は、作者自身のこころを遠い時間へ飛ばす。それはこころの解放だろう。日常にしっかり足場をおきながら、いつも心の天窓は遠くに開かれている。そこにあかるさがある。
 
雨ののちちいさな日向に干す傘の過ぎし時間のようなあかるさ   
 
 

松村正直 『戦争の歌』

泥濘に小休止するわが一隊すでに生き物の感じにあらず
                      宮柊二山西省
 
松村正直『戦争の歌』は、読むものに歴史ということに思いを深く向かわせる力をもっている。それは戦争とは、歴史とは、文芸とは何なのかという、絶えざる問いかけを重ねる粘り強い松村自身の思索の時間と向き合う楽しみも与えてくれる。
 松村はあとがきでこう記している。
 
 次に考えたいのは、戦争を詠んだ歌をどのように評価するのかという問題である。第二次世界大戦の敗戦を経て、現在の日本では「戦争=悪」という観念が広くゆきわたっている。けれどもそれは必ずしも普遍的な価値観ではなく、時代や国によって大きく違うという点は押さえておく必要があるだろう。
 
ここには松村の、硬直した思想としての「正義、善、真」ということへの本来的な不信や懐疑がある。あるいは「人間の意志や理性」ということへの謙虚な姿勢といってもいい。社会の枠組みや思潮に流されず、常に現実の多様性を足場にして自らの判断をすすめたいという覚醒した思考のクリアさがこの一冊を支えているように思う。
 
戦争のたのしみはわれの知らぬこと春のまひるを眠りつづける
                       前川佐美雄『植物祭』

たとえば、この歌を引いてこのように読んでいる。
 
「戦争のたのしみ」という言い方はまず強い印象を与える。戦争を起こす人間や社会に対する批判や批評精神を読み取ることができるだろう。あるいは戦争というものに、人間が本来持っている暴力性を見出しているのかもしれない。
 
このように、この著書は単なる「戦争の歌」の観賞本に終わらない。1首の歌をまず作品として、丁寧に鑑賞して、その歌がなぜ、どんな状況で読まれたのか、労を惜しまない詳細な探究がなされている。ここに引かれている51首の歌と、その解説文を読みながら、明治以降の日本の近代化の裏面としていつも戦争があり、短歌もまた過酷な近代をくぐりながら、戦争という大きな危機に直面しつつ、複雑な人間の内実を表出するにたる一分野を切り開いてきたことにある種の感動を覚えた。
兵匪討伐に十人を斬りしとふ兵はウヰスキー ( な )めて誰よりやさしげ
                      吉植庄亮『大陸巡遊吟

 この歌を引く松村の鑑賞眼が魅力的だ。一冊をとおして近代戦争のいちばんデリケートな内部を透視するような眩惑感がある。これはやはり膨大な資料の裏付けによるのだろう。
 あとがきで松村が提言しているように「戦争の歌」は社会詠として今後を考えるための作品であり、何よりも「人間」について深く考察してゆく手がかりでもある貴重な一冊になることはまちがいない。