眠らない島

短歌とあそぶ

松村正直 第三歌集 「午前三時を過ぎて」

 
  浴室に妻の使いし石鹸の香りは満ちて湯舟につかる  
 
 松村の文体は明晰で、言葉に過剰な意味を負わせない。そのシンプルな文体によってすくいとられる具体物が光沢を放っている。この歌では「石鹸」が一首の中にゆたかな情感を立ち上げている。この歌集を読んであらためて、歌の文体ということを思った。前衛短歌は修辞ルネッサンスと言われ、90年代のニューウエーブはその復古だった。そのアンチテーゼとして、松村正直の登場があったように思う。
 
雨の止みしのちもしばらく雨音は続いていたり樹のある庭に  
交差点に影を落として秋晴れの渋谷の谿(たに)を気球がわたる    
 
 修辞疲れということが言われる中、若手の歌からは、修辞らしきものは次第に消えている。修辞を使うことで、言葉が肥大化することへの違和感があるのだろう。そして、微細な世界へとかぎりなく接近し、自己を発見している。しかし、松村の歌はその方向には行かない。言葉はあくまでもシンプルでありながら、歌の世界は自閉していかない。どちらかというと、世界へ開かれていくような詠みぶりがこの歌集の風通しをよくしている。一首目の歌は雨の歌だが、雨のやんだあとにも、樹から落ちる滴の音を聞いている。湿り気のある空気に感応して流露する感情がある。二首目の歌は、都会の雑踏の中に季節感を織り込んでいてさわやかな一首になっている。
 
 風景のにぎわうなかに置いてみる赤い帽子をかぶる息子を    
 舟のうえに眠るがごとき子の姿うすき毛布をかけてやるなり     
 独身の叔父と離婚をせし父の二人暮らしはいかでありしか    
 生活は大丈夫かと問う父のしずかに深く老いてゆくこえ   
 
 冒頭の妻の歌も含めて、家族の歌はこの歌集にしっとりした陰影を落としていて奥行きをつくっている。それぞれの登場人物がどこか孤独であり、人間がこの世にあることのあわれさを感じさせられる。それは、作者自身の姿でもあるのだろう。とりわけ、一首目の「赤い帽子」は印象的である。雑踏のなかで漂うような小さな息子の存在。そこに作者はかぎりなく愛おしいものを見ているのだろう。
 
 振りむけば人のかたちは消えてゆく数年にいちどあることとして   
 踏切に列車過ぎるを見ておれば枕木ふかく耐えているなり      
「機械力専制」と詠みし若き日の文明を思う、その直感を    
 にせんにんが働くという工場の入口ありて人影をみず    
 
 職場の様相をとおして、現代社会の冷徹さを気負うことなく活写している。一首目は、職場内での事故に取材した歌。松村自身が「石川啄木を読まなければ今の自分はなかった」と発言している。それは生活短歌というような表層的な意味ではなく、生活や現実社会の深部に視点をおきつつ感情を吐露し、現実社会そのものや、そこで生きる人々へと射程を広げる文体をもつことかとも思う。二首目のような膨らみのある歌にかえって内圧を感じさせられて、目立たないが優れた暗喩の力を見る思いがした。
 
 ふらふらと男の影の去りしのちブロック塀の面は濡れる  
 工場の外階段にあらわれて手袋を脱ぐ初老のおとこ    
 
 この歌集を読んで、とくに優れた歌と感じた二首。このふたりの男は不意に現実から抜け出してしまったようなあてどなさがある。一首目、男の実体は存在せず、影だけが描かれいる。その影の去ったあとのブロック塀が濡れている。濡らしているのはこの「おとこ」が残していった内面の心情のようなものか。どこか不穏で、鬱屈をかかえた一人の男の存在感を確かに伝えている。二首目の「初老の男」は手袋を脱ぐ。この行為でわずかに作業の緊張感を解いている無防備な表情が伝わってくる。しかもその背景にある長い労働の時間を想像させる。この二人の男は、おそらくは作者の自己投影なのだろう。主観的な言葉をおさえて丁寧に場面を構成しており見事である。
 
 歌集をとおして、どちらかというと、暗いトーンが目立つがその中につぎのような歌に出会うと、しあわせとはこんな風かなと思わせられた。
 
 うすみどりいろのレタスをちぎりつつうすももいろのハムを切りつつ 
 そこにだけ光がさしているようなあなたのなかに中庭が見ゆ      
 
 ハムの歌は啄木の歌を連想させられて楽しかった。二首目の歌は抒情的で美しい。
 
 はじめに書いたようにどの歌も、読みに迷うことはない。明晰で潔い。それは作者自身の世に阿ねない潔癖な生き様にも通じているのだろう。そのことに羨望を抱きつつ、多少の痛ましさも感じてしまった。
 
 迷いなき言葉のみが持つ美しさビールの泡を拭いつつ聞く