眠らない島

短歌とあそぶ

岩尾淳子 第二歌集『岸』読書会 報告1


11月11日(土)に、田丸まひる『ピース降る』・岩尾淳子『岸』合同読書会を行いました。ここでは、『岸』読書会の報告をいたします。

レポーターからの報告

〇レポーター 1


〈はじめに〉

『岸』を読む現在とは、時代性もあって、表現についてそれぞれの歌人が抱えている課題も多く、混とんとした現在なのでは。
表現媒体で発信している歌人にとっては、自らの表現の責任や自由について考えることが多いだろう。

レポーター個人の感覚では、こんな時代に生きいて「短歌を詠んでいてよいのか」という問いをもってしまう。

そういった個別の迷いや課題に対しても、この歌集ではある種の倫理観を差し出している。

〈歌集全体〉
彼岸、此岸をふくめて「岸」自体を歌いたいという印象。
  
岸、それは祖母の名だったあてのなき旅の途中の舟を寄せゆく

口語文体が心のひだを震わせる作風は『眠らない島』からも続いているが、より深まりや広がりが生まれた。

〈第一歌集からの変化〉
・第一歌集に比べて具体や、主体があきらかになり、深まりや広がりが生まれた。
 直截に歌われるようになった。
 明るさや動きが加わった。
・ひらかなが減り、日常語に近くなった。
   
朝鳥がついばむベリーのまるき実の甘酸っぱさは分かちあうため

〈特色〉
・関係性という横軸に対して、死へ向かう時間という縦軸がある。歌集をとおして様々な「死」を追いかけてゆく。
・死が生を、生が死を求めて照らしあうことで、関係性が内面化している。また、「あなた」を詠むことで「わたし」が照らされているとも言える。
 
病んでいた君のこころに気づかずに膝のパンくず払っていたか

こともなく正答するりと書き上げて少女は机に突っ伏している

・美意識(=死・ことば)を潜るために主体性がせりだしてくる。

先生の性愛の歌は夏芙蓉ひざしのようにうるわしく逢う

あんまり思い出したくないんだ戦争は、血を噴きそうな先生の喉

美しいのは毒、きよらかなのは骨、声はしたたる熱のごときか

・個別の感覚や経験、場所を表現によって深めることで、倫理や社会、他者、時間とつながっていく。

終わらない戦争があり滅びゆく家族はこころにお香を焚けり

よく生きた」生きてただけで褒められる六〇三人登校した日

震災にこわれなかったビルもあり赤い円卓ゆっくりまわす

・雑多な現在が歴史性や幻想とつながる。

中世はたとえば萱野うつくしき係り結びの滅びし夏の

秋には、とあなかが言えば夕霧がサラダの上にながれはじめる



〈文体〉
・ひとつの歌を歌うために、口語と文語の二つの文体が個別に生かされている。文体の個別性と出会うことで、生や死やことばと触れる、経験することができる。
 
新しい小児科医院は夕やみにスープのような灯りをこぼす

記憶こそかなしむ力、いくたびも薪をくべて越してきた冬

あらかじめ空には傷があることをきれいな鴉が教えてくれる

・一首の文体の印象が、歌集として詠むことで変化する。
・連作の意味
 歌を並べて連作にすること、歌集として編むことで社会とつながる。

〈最後に〉今、生きている人とのつながりを感じる。
     歌集を読みながら、読む方が自在になれる感じを受ける。

 
〇レポーター2
 
〈第一歌集との比較〉

・第一歌集は口語文体や、具体の希薄さなどの縛りが多くて読むのがしんどかった。
 今回は、テーマ性が生まれ、日常に寄り添い、広がりがある。
 文体の自在さも手に入れながら、詩情も失われていない。

〈視点の広がり/意識と景〉
・遠い視点から近い視点へと無理なくつながる、続いてゆく修辞が生まれている。

ほんのりと火星が寄せてくる夕べちりめんじゃこをサラダに降らす

ぶらんこがしずかな親子をゆらしおり浜につづいてゆく境内に

・景が自然に意識とつながる構成

海沿いに夾竹桃は咲きつづく死からはじまる時間のながさ

靴箱のふたを閉ざしてあとにする離島のような校舎の灯り

〈俯瞰/神の目〉
・高い視点から歌いだされながら、抽象から具体へと視点が日常に帰ってくる

鳥の声しずめてやすむ葦原にたっぷりとした鉄橋はあり

輪廻してゆく人たちが乗り合えるバスに小さな運賃の箱

葦分けて水ゆくように制服の列にましろき紙ゆきわたる

忘却のましろき雲のわきあがる空よりおりてくる歩道橋




〈観察眼〉
・景がよく見えている

はすかいにプラトンを読む青年のざわっと広げてゆく夏の枝

夕暮れて野球部員の均しゆく土より冬の背筋が浮かぶ

パイプ椅子二千が撤収されしのち陽のさす床のきれいな木目

〈文語〉
・文語を取り入れることで、単調さを回避している。
 特に死を語る歌では文語が生きている。

生き残り短大教授を辞するまで破滅も成さずと嘆きたまいき

死に別れせしねえさんを長くながく求めゆきてなお父は語らず

最後に〉

生と死の堺を見た人の眼で歌が詠まれている。
そういう点は『眠らない島』よりも純化している。
また、日常のざらざらした感じもある。
地上の世界も見えている。